森源三邸(現知事公館)

 札幌の地下鉄東西線「西18丁目駅」より東側の北1条西15丁目にある「知事公館」は、昔「三井倶楽部」と呼ばれていたそうですが、明治の頃は、札幌農学校の第2代校長を勤めた「森源三」という人が住んでいたところでした。
 知事公館のすぐ近くに住んでいましたので、よく遊びに行きましたが、森源三という人については、全く知りませんでした。
 ある日、「北海道大学北方関係資料」のホームページにある写真を眺めていたところ、大正3年に撮影された森源三邸とその付近の写真を見て興味を持ち、北海道の開拓に大きく貢献された森源三という人のことを調べてみました。


森源三

森源三の誕生

 森源三は天保6年11月24日(1835年)、越後の国長岡藩士・毛利忠平の子として生まれ、広之丞と名づけられました。(有島武郎の世界)

 北海道総務部文書課編の「北海道の夜明け」などには、生年月日は天保8年(1837年)7月、父の名は長岡藩士・毛利忠平治となっていますが、「有島武郎の世界」の著者である山田昭夫氏が森源三の戸籍を調べたところ、上記のとおりでした。

 「北海道人名辞典」(大正3年)によると、時期はわかりませんが、『同藩士族森家を継ぎてその性を襲う』と記されています。

 老中職にあった藩主牧野忠雅の命により、安政4年4月1日長岡を発して蝦夷地・北蝦夷地(カラフト)を調査し、「罕有(かんゆう)日記」を書いた森一馬(春成)は、森源三の兄にあたります。

 文久3年12月10日(1863年)、青年期をむかえた源三は、江戸に出て、当時幕府の鉄砲方・海防掛などを勤める江川太郎左衛門の塾に入門し、洋学と砲兵術を学びました。江川太郎左衛門の「塾生名簿」には、次のように記されています。(「ふるさと長岡の人々」、長岡市1998年3月)

備前守家来 森広之丞
文久三年十二月十日 入門
同四年正月八日 入塾
元治元年三月二十八日 目録
同年八月 当分退塾
同年九月十四日 再塾入
同年八月 免許
同年九月 皆伝

 なお、薩摩藩士・黒田清隆(了介)とは同門でした。(北海道の夜明け)

 森源三たちが遊学を終えて、長岡に帰ると直ぐに、河井継之助が進める藩制改革の一つとして、家老、奉行、番頭を含む藩士の操練が始まりました。教導の任にあたったのは、森源三のほか由良安兵衛、荻原要人、吉川角兵衛、倉澤喜惣次たちでした。(「河井継之助伝」今泉鐸次郎著)

 また、時期は不明ですが、森源三は河井継之助のすぐ上の姉・千代の次女で、河井継之助の養女となっていたマキ(嘉永6年6月5日生まれ)と結婚しています。

北越戦争

 慶応4年、今の新潟県長岡市周辺で、山縣有朋と黒田清隆を指揮官とする明治新政府軍と長岡藩との間に、明治維新で最も戦闘が激しかった北越戦争が起こりました。

 『江戸開城後における官軍の処置に不満をもつ旧幕臣、佐幕派の武士たちは、関東以北のいたるところで一斉に決起していました。北越の諸藩は、ほとんどが徳川家の一門か、譜代であったため徳川慶喜の追討および会津・庄内両藩の征討などに反対、奥羽列藩同盟のすすめにこたえて、北越同盟を結成しようとしていました。

 この中にあって長岡藩は、前藩主牧野備前守が京都所司代・老中などを歴任した関係から、京都の政情にも、幕附の事情にも、比較的精通していたので、家老の河井が、藩内の尊王・佐幕両派をおさえて藩論を統一し、中立の態度で官軍と奥羽諸藩との調停にあたろうとしました。

 慶応4年5月2日、既に官軍によりその領地をとりかこまれていた長岡藩の家老河井継之助は、単身、長岡南方の官軍本営に東山道先鋒総督府軍監岩村高俊を訪ね、慈願寺で最後の会談を行ないました。


河井継之助
(「河井継之助伝」今泉鐸次郎著)

 しかし、幼い岩村軍監は、長岡藩の立場を理解しようとせず、官軍に従うか、戦うか、どちらにするかと迫ったため、河井は憤慨して席をけり、ついに会談は決裂してしまいました。こうして河井の率いる長岡軍は、北陸道鎮撫総督兼会津征討総督高倉永祐、参謀黒田清隆・山縣有朋らの率いる官軍と越後口で一戦を交えることになりました。

 この戦いで家老の河井は、銃創をうけ、兵をまとめて会津方面へおちる途中で死亡し、さしもの豪勇うたわれた長岡箪も、中心を失って壊滅しました。この報が伝わると、北越諸藩はつぎつぎと降伏、8月初旬までに北越全土は全く官軍の支配下となりました。』(北海道の夜明け)

 長岡出身で、実兄の大橋一蔵とともに江別太に入植した大河原文蔵によると、森源三は藩の家老河井継之助の下で官軍と戦ったが、『砲術方に廻って居て、退却しつつ会津まで落ち行かれた』とのことです。(北海タイムス「故森翁の逸話(上)」、明治43年6月5日)

 河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けました。(河井継之助 - Wikiwandホームページ)


戊辰前後の森源三
(「河井継之助伝」今泉鐸次郎著)

長岡から東京、そして札幌へ

明治2年(1869年)

 3月、元藩主・牧野忠恭は継之助の心事を憫(あわれ)み、旧藩士・森一馬の弟・広之丞に新地百石を給し、名を「源三」と改めさせて、継之助の両親及び未亡人を扶養させました。(長岡市史、昭和6年)


河井継之助の母・貞(左)と妻・すが(右)
(「河井継之助伝」今泉鐸次郎著)

 9月、森源三と河井継之助の遺族一同は、没命地である鹽澤と会津に赴き、建福寺で遺骨を収め、携えて帰り、河井家の菩提寺である長岡の栄涼寺に改葬しました。(「河井継之助伝」今泉鐸次郎著)

 明治2年頃から長岡の商家・岸宇吉宅で、当時珍しい舶来のランプを囲んで、戦争で荒廃した町の復興計画や長岡の商業のあり方を話し合う「ランプ会」が開かれました。幹事のような役目の常議員には士族でのちに江別で「北越殖民社」を創設した三島億二郎、商人の岸宇吉・渡辺六松・目黒十郎・佐藤作平、医師の梛野直が名を連ねました。(長岡市史)

 この会には森源三のほか、のちに森源三とともに北海道の開拓に大きく貢献した三条の笠原文平も加わっていました。(「まちづくり市民研究所 第2期 報告書」、まちなかキャンパス長岡)

 この会は明治10年ころまで続き、士族と平民の融和により、長岡復興の大きな原動力となりました。(長岡市史)

明治3年(1870年)

 10月22日、旧長岡藩が柏崎県に併合されると、森源三は県の少参事・軍務主事・長岡市の触頭(宗教行政上の機関)の職に任命されました。(北海道の夜明け)

明治5年(1872年)

 10月3日、森源三のもとに『開拓使十等出仕申付候事』という辞令が達せられました。数少ない知識人のひとりである源三の学識の埋もれるのを惜しんだかつての同門であり、北越戦争の越後口では敵ともなった開拓次官黒田の登用によるものでした。(北海道の夜明け)

 この時、森源三は37歳、黒田清隆は32歳でした。
 森源三は、芝増上寺にある開拓使に出仕するため、東京に出ました。

増上寺にあった開拓使東京出張所、明治5年8月
(北海道大学「北方関係資料」)

明治6年(1873年)

 3月17日、開拓使官吏となった森源三は、農業掛のかたわら、調所広丈・柳田友卿・井川冽らとともに、芝増上寺にあった開拓使仮学校の改正掛を命じられました。(北海道大学「北大百年史(通史、第一章)」)


増上寺の開拓使仮学校校舎
(北海道大学付属図書館蔵)

 4月19日、調所広丈は校長となり、柳田友郷、森源三、井川冽の3名は仮学校事務掛を命じられました。(北海道大学「北大百年史(通史、第一章)」)


開拓使出張所と仮学校があったところ(芝増上寺)
※右方向が北>
「新撰區分東亰明細圖」(明治9年)


「開拓使仮学校跡」碑(芝公園3丁目)

 10月、森源三は開拓使九等出仕となりました。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 井川冽が仮学校時代の回顧談を残しています。

 『開拓使当時、仮学校を芝山内に置き、人才を仕立てる事に為って、始め、農工鑛を教える目的で有った。
 生徒を募集すると大勢が応じたが、生徒の多くは年齢の老けたる上、各藩から出した荒っぽい人間なので、規律など立たず、結局残らず解散して了(しま)った。

 其処(そこ)で仮学校改正係と云うものが出来た。それが明治六年であって、此時、調所廣丈、柳田友郷、森源三、井川冽の四人が改正係を拝命し、学則などを新たに作って、先ず五十人丈(だけ)入れる事にして、初歩から教えることになり、解散と共に逐い出した者は再試験して、其の中から確か、五、六人を採った。跡は凡て新入生の子供の生徒で、愈々(いよいよ)(ここ)に開校したが、其の当時の校長として調所廣丈、創始には荒井郁之助が校長であって、我々三人は事務掛となった。英語教師に米人のベーチ?を傭入れ、外(ほか)に数学に山田昌邦、漢学に保田久道と云う顔触れで授業した。

 其の時、札幌に一ツの英語学校が有って、矢張り米人が一人(クラークと云って有名なクラークとは同名異人で、背高クラークと云った米人)、その外は日本人で授業して居たが、仮学校も其の實、英語学校で有って同じような者(もの)であった』(北海タイムス「今は昔の仮学校、井川冽氏」、大正7年8月10日)

 また、この年の年末に、井川冽がはじめて渡道した時のとても恐ろしいエピソードです。

 『自分は明治六年の年末に校長心得で、始めて渡道した。函館までは当時三昼夜位で行けたが、自分は函館から其の日に森に行くと、荒(あらし)の為、舟が壊れて居って、和船で渡ることとなり、五、六日間船待して、漸く(ようやく)に今日は大丈夫ということで、出掛け出すと海が荒れ出して、サハラに行って、亦(また)一週間計りどうする事も出来ず、今日は良いと云うことで、出たは十二月は大晦日で有った。中途〇を出ると風が落ちて舟は立ち往生して、八人の船客は代わるがわる魯を漕いで船夫を助け、朝未明に出て室蘭に着いたのが夜半十二時過ぎであった。其の夜、室蘭に泊まったが、日が短いので馬に荷物を着けてゴトゴト四、五日掛って千歳に着き、千歳から札幌に夜遅くに豊平橋の仮橋を渡った時の事は、今でもゾットした程で、忘れもせぬ記憶に残って居るが、彼是(かれこれ)半カ月掛って東京から札幌に安着(あんちゃく=途中事故なく目的地に着くこと)した』(北海タイムス「今は昔の仮学校、井川冽氏」大正7年8月10日)

明治8年(1875年)

 3月、開拓史仮学校を札幌に移転することが決定し、校舎の整備等のため、森源三が札幌に派遣されました。(北海道大学「北大百年史(通史、第一章)」)

 この時、のちに樺戸集治監の設置に伴って、30歳の若さで看守長になった旧長岡藩士の高野譲も森源三に随行して札幌に渡りました。(子孫が語る河井継之助)

 開拓使はこれからの屯田兵に養蚕をすすめるための計画の一つとして、現在「桑園」の地区名で呼ばれている範囲よりももう少し広い南1条から北10条、西11丁目から旧円山村界の西21丁目あたりまでの地域を全部桑畑にすること決めました。黒田長官は、松本十郎大判官と相談して、庄内藩(今の山形県)の元士族を招いて、開墾してもらうことにしました。

 この時開墾した桑園の地図が、「札幌養蚕場 第一号桑園」(明治15年作成)に残されています。

札幌養蚕場 第一号桑園(明治15年)
(北海道立文書館・デジタルアーカイブ)

 地図には碁盤の目状の道路が描かれていますが、これは畦道のようなものでしょう。地図の凡例には「園内道路」とあり、現在の道路とは違います。

 旧庄内藩士たちが宿泊した建物は、清水が湧き出るメムの直ぐそばに建てられていましたが、この土地(現在の知事公館)はこの後に森源三の住居となりました。後の森源三の住居付近を赤い線で囲ってみました。


後に森源三邸となった付近の拡大図
(メムのそばの建物は旧庄内藩士たちが宿泊した)

 旧庄内藩士による開墾後の桑園は、琴似(明治8年入植)、山鼻(明治9年入植)の両屯田兵に受け継がれ、宿泊に利用された建物は、桑園を維持運営するために「桑園事務所」として使用されたと言われています。

 6月、森源三は札幌勤務となり、7月には開拓大主典に任ぜられました。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 7月、開拓使仮学校は札幌学校と改称するとともに、その管轄は開拓使札幌本庁学務局へと移り、教職員と生徒が東京から札幌へ到着したのは8月でした。(北海道大学「北大百年史(通史、第一章)」)

 9月7日、開拓大判官松本十郎ら開拓使官使列席のもとで、札幌学校の開業式が行われました。
 教職員は、調所広丈(開拓幹事、校長)、森源三(開拓大主典、副校長)、ほか井川冽、平野候次郎、高倉平三郎、加藤政敏、山田昌邦、外国人教師のヨルウィンでした。
 この時の札幌学校は、上川通り(北1条より北側の西3丁目通り)に面した創成川の西側にあったお雇い外国人の宿舎として建てられた建物を修繕して使用されました。(北海道大学「北大百年史(通史、第一章)」)

開校式当日の札幌学校講堂
(北海道大学「北方関係資料」)

開校式当日の札幌学校職員・来賓および生徒一同
(北海道大学「北方関係資料」)

 先に紹介した井川冽氏の仮学校時代の回想談の続きです。

 『斯(か)くて、一年程して自分は校長心得に任ぜられたが、東京、札幌の二か所に外人など傭って遣(や)って行くは、第一に不経済でもあり、必要の無いことなので、其の内試験してもらい、生徒は東京に連行、之を一所にすると云うことになり、明治七年の夏に選抜した数名の生徒と同行して仮学校に合併した。其の時に札幌で選抜して連れて行ったのが、宗像政、佐藤勇、志水小一郎等であった。明治八年に至って、東京の仮学校を札幌に移す事に為り、時計台の付近に寄宿舎などを建設した。仮学校の中に女学校も有って、これも札幌に移した。併(しか)し、此の女学校は自然に亡くなって了(しま)った。札幌に移すと同時に、仮学校の名称は札幌学校と云うことに為った。生徒五十名中には佐藤勇、荒川重秀、小野兼基等が居った。』(北海タイムス「今は昔の仮学校、井川冽氏」、大正7年8月10日)

札幌農学校

明治9年(1876年)

 7月31日、札幌農学校の専門教師の招へいに応じて、ウイリアム・スミス・クラーク、ウイリアム・ホイーラー、ダビッド・P・ベンハローの3名が札幌に到着しました。(北海道大学「北大百年史(通史、第ニ章)」)

 8月14日午前10時より札幌学校第一講堂で、長官以下開拓使の諸官員、外国人教師、生徒、各郡教育所員列席の下に札幌農学校専門科の開業式が行われ、札幌農学校(本科、修学年限4年)が開校しました。(北海道大学「北大百年史(通史、第ニ章)」)

開業式当日の札幌農学校全景
(北海道大学「北方関係資料」)

 東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学となったのは、この後の明治10年4月でした。

 札幌農学校の初代校長は仮学校以来その職にあった調所広丈でした。また、クラーク博士は単なる教師ではなく、教頭でもありました。森源三は開拓使学務局理事課理事掛となって、仮学校以来の職員として札幌農学校を担当しました。(北海道大学「北大百年史(通史、第ニ章)」)

明治9年当時の森源三、開拓使学務局札幌農学校
(北海道大学「北方関係資料」)

 10月8日、森源三と河井の姉千代の子の巻子の長男として、森廣が札幌で生まれました。(ポプラ物語)

 同じ10月、南後志通10番地(現在の大通西3丁目)にあった開拓使の南後志通第10号邸(二階建商家、明治6年築)の払い下げを受けました。土地は55坪、建物は28坪でした。(新札幌市史、第2巻「通史2」および第7巻「資料編2」)

 森源三が払い下げを受けた商家の写真が残されています。後志通(南大通3丁目)に完成した「西洋町長屋」という写真の左から2軒目の建物が、森源三が払い下げを受けた第10号邸「二階建商家」と思われます。
 なお、左端の二階建ての建物は第9号邸の「二階屋四戸建商家」で、右側にある平屋の建物は第11号邸「平屋二戸建商家」でしょう。これらの商家を併せて、「西洋町長屋」と称したものと思われます。
 手前の広場は、後志通(現在の大通公園)です。


後志通(南大通3丁目)に完成した「西洋町長屋」、明治6年
(北海道大学付属図書館蔵)

 さっぽろ文庫23「札幌の建物」には、「洋風商家」のことが次のように説明されています。

 「洋風商家」とか「西洋町長屋」と呼ばれる四棟からなる建築群である。現在の大通西三丁目、明治生命札幌ビルと安田火災海上ビルの位置に大通りに向けて建てられた。今でこそ街の中心部であるが、当時は東隣に土塀で囲われた邏卒遁所(警察所)、筋向いに獄舎があり、明治八年には南側に脇本陣(後に女学校)も隣接する敷地であった。
 完成直後、民間に貸し付けるか、払い下げをねらったものらしいが、原野に近い大通りを通る人もほとんどいない時代である。借り手のないまま結局官舎に転用されてしまった。
 西から(右から)平屋一戸建て、平屋二戸建て、二階一戸建て、二階二戸建ての四タイプが並んでいた。いずれも切妻造、平入りで窓、入口とも三角ペディメントをつけ、ガラリ戸を設けている。下見板は薄い色のペンキ塗り、開口部まわりは白色系のペンキで仕上げられていた。前述の開拓使官舎同様、まったくの洋風スタイルであるが、出入口の両開きガラス戸を除いて、窓は「引き違いガラス障子」が採用されていた。
 内部は前面が店舗空間であろうが、九尺×三尺の板敷の「踏込」以外は、畳敷きとしていたようである。
 (森源三が住んだ)「商家二階造壱住居」は、「商家平屋造壱住居」(平屋一戸建て)の上に二階を設けたものである。梁間二五・二尺(七・六四メートル)、桁行二八・三五尺(八・五九メートル)の主棟に便所棟(一・一坪)を付属している。主棟は前面に店舗部一室、背面に畳敷(十二畳程度)と板敷きの台所の二室で構成されていた。台所は下流である。

 「札幌市街地明細図」(明治10年)を見ますと、森源三が官宅の払い下げを受けた南後志通(現在の大通西3丁目)は空白のままです。一方、北後志通には札幌農学校校長の調所広丈ほか4名の名前が見られます。調所広丈は、後志通第8号邸「大主典邸」の払い下げを請けました。

「札幌市街地明細図」(明治10年)
(北海道立文書館デジタルアーカイブ)

 東京の築地で製靴術を学んでいた岩井信六が、この年、叔父の森源三が副校長を務める札幌農学校の靴工となりました。(岩井信六(いわい しんろく)とは - コトバンク・ホームページ)
 後に、岩井信六は独立して札幌で靴店を開業し、今も南1条西1丁目にある札幌では有名なお店になりました。>

 先に紹介した井川冽氏の札幌農学校の回想談の続きです。

 『農学校丈(だけ)早く始めようと云うことで、特に森源三、調所廣丈、湯地定憲、堀誠太郎、井川冽の四名に調査を命ぜられたので、三人ばかり米人を傭入れると云う事に決し、時の米国全権公使の森有禮に託して、其の傭入を頼んだ。森全権公使はマサチューセッツの州立農学校に交渉し、年俸四、五千圓位で傭入れの相談を為すと、校長のクラークが自分で来てもよい、自分で一ツ創業すると云う(意)気込で、特に一年の賜暇を得て、クラークの学校を卒業した二人を連れて来る事に為った。一人はホイラーで、一人はベンハローと云った。

 斯(かく)て、明治九年から農学校を開業した。生徒は東京にて募集し、開校式は黒田長官以下臨席で、却々(なかなか)以って盛大に行われ、校長は調所で、クラークは大望心あれの演説をした。其の翻訳文は自分の手に認め、今に学校に保存され居る筈だが、クラークは英語と農学、ホイラーは土木、数学、ベンハローは分析、化学を受け持った。クラークは一年の賜暇で遣(や)って来たが、一年立たずに帰米する事に為り、卒業式迄は居なかった。其の後、ホイラーが上席を占め、ブルックスと入れ換は、リドクトル・カッターが来て、生理学を担当する等、其の人を更へたが、ベンハローは明治十三年に、その前年にホイラーが帰り、ブルックスは明治二十幾年まで長く居た。自分は明治二十二年迄、北海道に居たが、農学校の方には(明治)十九年までであった。』(北海タイムス「今は昔の仮学校、井川冽氏」、大正7年8月10日)

明治10年(1877年)

 3月、森源三は開拓一等属に任ぜられました。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 4月16日、初代教頭クラークが札幌を離れ、帰国の途につきました。この日農学校は臨時休校とされ、教師・生徒一同はクラークを札幌郊外の島松駅まで見送りました。(北海道大学「北大百年史(通史、第ニ章)」)

クラーク博士を見送る教職員学生一同、開拓使本陣前
(北海道大学「北方関係資料」)

 河井すが、義母貞とともに北海道に移り、森源三・まき夫妻と共同生活が始まりました。
 森源三は最初、自分は札幌農学校に単身赴任して、すがと貞は長岡に残るべきであると考えていましたが、長岡で実力を上げてきた三島憶次郎や長岡の有力者たちが、町の復興を優先して、河井の家族の救済をしなかったので、東京に呼んだものの、森源三の札幌転勤に伴い、東京から札幌に居を移したものです。すがと貞は汽船で小樽へ行き、馬車で札幌に入りました。(子孫が語る河井継之助)

 「子孫が語る河井継之助」では『札幌で暮らしていた』とあり、河井継之助記念館会報「峠」12号(平成24年11月発行)にも、『最近札幌に河井継之助の妻・母の新資料が出た』とあります。
 前年の明治9年10月に南後志通(現在の大通西3丁目)にあった開拓使の官宅の払い下げを受けたことから、河井継之助の妻と母を呼び寄せることができるようになったのではないでしょうか?

明治11年(1878年)

森源三の家族、明治11年
男の子は森廣、女の子は不明
(北海道大学「北方関係資料」)

明治12年(1879年)

 この年、森源三は開拓権少書記官に任ぜられ、正七位に叙せられました。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 明治13年の「開拓使各庁職員録」によると、長官である黒田清隆から数えて9番目に『権少書記官 正七位 森源三』とあります。


権少書記官 森源三
(開拓使各庁職員録、明治13年12月18日)

明治13年(1880年)

官服、帯剣で椅子に坐る森源三(開拓権少記官、明治13年4月)
(北海道大学「北方関係資料」)

 6月13日、長岡にいる母の病気を看護するため、帰省しました。7月3日には札幌に帰任しています。(開拓使申奏録、明治十三年)
 この時、河井継之助の十三回忌にあたり、親戚、森源三、未亡人すがおよび戸長が連署して、明治政府に「河井家家名再興願い」を申請しました。(「河井継之助伝」今泉鐸次郎著)

 7月10日、札幌農学校第一回卒業式が行われました。この日卒業したのは13名でした。(北海道大学「北大百年史(通史、第ニ章)」)
 後に札幌農学校の校長となる佐藤昌介や卒業後森源三の妻・まき夫人の妹である根岸幸と結婚し、北海道各地で開拓のための測量や適地選定作業に従事した内田瀞もその一人でした。

明治14年(1881年)

 2月3日、開拓権少書記官の森源三が札幌農学校の校長となりました。(北海道大学「北大百年史(通史、第ニ章)」)

 8月、森源三が校長兼務の学務課長となりました。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 9月1日、明治天皇による農学校への臨御がありました。(北海道大学「北大百年史(通史、第ニ章)」)
 この年、開拓使長官・黒田清隆による官有物の払い下げ事件が起こりました。この大変な時期に天皇が北海道視察のために行幸され、森源三は校長として案内を務めるという光栄に浴することになりました。賊軍の将に縁のある者でしたから、このことは森源三にとって感極まりないことだったに違いありません。(ポプラ物語)

森源三を囲む開拓使官吏たち、明治14年頃
右から鈴木大亮、馬島譲、森源三、佐藤秀顕、内海利貞
(北海道大学「北方関係資料」)

 写真の右端に座っている鈴木大亮ですが、元伊達藩藩士で、森源三と同様に江戸の江川太郎左衛門の塾で砲術を修め、黒田清隆らを知り、意気投合しました。しかし、明治元年の奥羽戦争では黒田と敵味方に分かれて戦うことになりました。明治四年、黒田が開拓次官になると、鈴木大亮も開拓使に勤務することになりました。
 事務的才能に恵まれていたこともあって黒田次官に重用され、同九年には開拓少書記官に任ぜられました。同年二月札幌在勤となり記録局長、刑法局長を歴任の後、開拓大書記官になりました。しかし、十五年二月には北海道を離れ、農商務大書記官に転じ、大蔵大書記官を兼ねました。(「鈴木大亮」、さっぽろ文庫50「開拓使時代」)

明治15年(1882年)

 2月8日、開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の三県が設置されました。これに伴い開拓使の官営事業が農商務省に移管され、森源三は同省の権少書記官となり、農務局、工務局、博物局兼務となりました。(「森源三」、さっぽろ文庫50「開拓使時代」)

 5月23日、森源三の妻・まき夫人の妹・幸と札幌農学校の第一期卒業生の内田瀞が結婚し、大通西3丁目5番地で新婚生活を始めました。(子孫が語る河井継之助)
  この時の森源三の住所は南後志通(大通西3丁目)10番地ですので、まき夫人と妹の幸は同じ町内に住んでいたことになります。

 6月、長岡の三島億二郎が森源三を訪問しています。(子孫が語る河井継之助)
 三島億二郎は、明治15年(1882)、(新潟県にあった)古志郡長を辞職した後、北海道開拓に傾注し、明治19年(1886年)には笠原文平、大橋一蔵、関矢孫左衛門、岸宇吉らと北越殖民社を開設し、江別での開拓を始めています。

明治16年(1883年)

 1月、農商務省のもとに北海道事業管理局ができ、森源三は、整査・庶務・会計・物産の四課、札幌農業・札幌工業・炭鉱鉄道の三事務所および札幌農学校、紋別製糖所・七重農工事務所・根室農工事務所などを管轄しました。(北海道の夜明け)

 札幌農業事務所では、札幌育種場、札幌緬羊場、真駒内牧牛場、札幌葎草園、札幌桑園、札幌養蚕室、新冠牧馬場(明治16年宮内省に移管)、札幌博物場(明治17年札幌農学校に移管)を所管しました。(「森源三」、さっぽろ文庫50「開拓使時代」)

 2月、森源三は従六位に叙せられました。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 2月16日、河井継之助が戦死し、子供がいなかったため家が断絶するのを心配した旧長岡藩主のはからいで、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令により河井家は未亡人・すが子の名によって家名再興が認められ、さらに森源三の次男・茂樹を河井家の相続者と定めました。(長岡市史)

 11月、森源三は宮内省御用掛兼務となり、12月には、新冠牧馬場事務長となっています。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

明治18年(1885年)

 10月1日、河井継之助の姉・千代と長岡藩士根岸勝之助の次男で、森源三の妻・まき夫人の弟であり、森源三の妹・照と結婚した根岸錬次郎が、新しく創立された日本郵船会社に入社し、小樽支店手代として小樽に派遣されました。さらに、翌年1月19日には函館支店開設のため函館に出張となり、入社1年後の明治19年12月20日には本社庶務課手代となって東京に戻っています。(子孫が語る河井継之助)

明治19年(1886年)

 1月26日、函館・札幌・根室の三県は廃止され、その代わりに北海道庁が新設され、その初代長官には元開拓大判官であった岩村通利が就任しました。札幌農学校もその管轄となりました。(北海道大学「北大百年史(通史、第三章)」)

 2月9日、新冠御料牧場は御料局の主管となり、新冠御料地と名称を改め、森源三が御料局新冠出張所の所長となりました。(新冠御料牧場沿革誌)

 4月、校長森源三は北海道庁長官岩村通俊に卒業生を官吏に任用する制度を設けるよう進言し、翌5月には『札幌農学校ニ於テ全科卒業ノ者ハ五ヶ年間北海道庁ニ奉職スヘキモノトス』との規程を含んだ校則改正案を提出しました。しかし、北海道庁は経費節減を施政方針の一つとし、官員の整理や官営事業の縮小・廃止を具体策とし、校則改正案が認められなかったばかりか、農園の大幅縮小を余儀なくされました。(北海道大学「北大百年史(通史、第三章)」)

 北海道庁長官・岩村通俊は、北越戦争の時に河井継之助が小千谷の慈眼寺で決裂した会談の相手であった幼い東山道先鋒総督府軍監・岩村高俊の兄でした。この時の森源三の気持ちは容易に想像されます。
 なお、この後も岩村通俊は北海道庁の長官として経費節減を進めますが、2年後の明治21年6月に総理大臣・黒田清隆により長官を事実上更迭させられています。

 北海道史編纂掛の「養蚕沿革事歴」によると、『5月札幌養蚕場事業ヲ中止ス、5月8日桑園内ノ地所、新潟県河井茂樹ニ貸与ス』と記載されています。

 河井茂樹は明治13年の生まれで、この時の年齢は6~7歳ですので、実質的には義母・河井すがと義祖母・貞に貸し与えられたものでしょう。
 貸し下げられた土地の住所については記載がありませんが、明治45年の「最近札幌全区地主名簿」では、河井茂樹の所有地は北3条西16丁目となっています。

 また、「三井の集會所」によると、『明治19年に開拓使庁蚕業事務所が廃止されると、この土地(現在の知事公館がある土地)は当時の吏員であり、後年札幌農学校の校長となる(「後年」は間違いで、この当時、既に札幌農学校の校長であった)森源三に払い下げられる』と記載されていますので、森源三と河井茂樹への土地の払下げは、明治19年にほぼ同時に行われたものと思われます。

 「札幌区史」によりますと、『札幌桑園は、明治19年中、成墾地、荒蕪地、各5町歩以内を区内養蚕家に貸与し(途中略)、20年4月第1号桑園内7町余歩を蚕室に〇して、長野長太郎、町田菊次郎(両名とも日本を代表する養蚕家)に貸し付け、また21年12月第1号桑園の一部を養蚕篤志家に払い下げ、22年に至り・・(途中略)・・、第1号園の一部を山鼻琴似両屯田共有地(JR桑園駅から南側、西17丁目から東側の地域)に払い下げ、また星野長太郎に貸し付け中の桑園一部1万5千坪を返還せしめて、札幌病院(平成7年まで北1条西8丁目にあった)敷地となし、またその内7千余坪を北海道尋常師範学校(南1条西14丁目~南2条西19丁目)に交付し、蚕室は札幌女子小学校(当時、北1条西4丁目)の校舎に下付せり。ここに於いてかって、広大比類稀なる札幌桑園は皆民有に帰して、現時わずかに蚕業講習所内(北1条西17丁目~北2条西19丁目)、および北3条西13、14丁目の私有桑園(この付近は、明治17年4月に東皐園を創設した上島正の子息・上島惣五郎など7名に貸与されています)にその一部を残留するのみとなれり』と記載されています。

 札幌農学校第一回卒業生であった佐藤昌介が米国留学から帰国して3か月ほど経った明治19年11月に、「札幌農学校ノ組織改正ノ意見」と題する意見書を岩村長官に提出しました。佐藤の提案は卒業生を北海道に定着させることのみならず、農学校の機能を拡大し、北海道開拓により密接に関連づけることに重点が置かれていました。(北海道大学「北大百年史(通史、第三章)」)

 12月28日、佐藤昌介の提案が受け入れられ、北海道庁官制の改定と同時に、札幌農学校官制が制定されました。この日、森源三は札幌農学校の校長の職を解かれ、非職となり、北海道庁理事官佐藤秀顕を校長事務取扱、佐藤昌介を教授に任命しました。(北海道大学「北大百年史(通史、第三章)」)

明治20年(1887年)

森源三夫人、まき(明治20年)
(北海道大学「北方関係資料」)

 1月、森源三は御料局新冠出張所の所長の職を解かれました。(新冠御料牧場沿革誌)
 この後、森源三は休職したようです。

 6月14日の北海新聞の記事「森源三氏(旧農学校長養蚕従事)」には、『旧農学校校長なる同氏には、北一条西十三丁目の養蚕室近傍へ家屋を構え、養蚕に従事せらるるとか云う』と書かれています。

 新聞の記事には、「北一条西十三丁目の養蚕室近傍」とありますが、北1条西13丁目(現在の北一条教会付近)には札幌農学校の1期生で、明治13年から29年まで開拓使(北海道庁)に勤めた柳本通義に払い下げられ、住居と畑がありましたので、森源三に払い下げられた土地には含まれていなかったと思われます。

 森源三の住所については、約10年後の明治29年3月の新聞記事では北1条西13丁目、明治32年12月の札幌区役所公文書では北1条西15丁目などと相違が見られます。当時のこの付近一帯は桑畑だけが広がっていましたので、住所がなかったのではないでしょうか?したがって新聞に書かれた住所は最寄りの市街地の住所が書かれていたのではないでしょうか?しかし、北1条西15丁目が正しかったと思われます。
 なお、当時、「養蚕室」は北1条西8丁目にありました。

 さらに、昭和37年7月25日の北海道新聞の記事「百年のふるさと(22)知事公館」によりますと、知事公館由来書には、『森は現公館の位置に居宅を設け、みずから養蚕に従事した。木造平屋建ての居宅には養蚕室があった』と記載されているとのことです。

 また、「子孫が語る河井継之助」によれば、『すがと義母貞は、源三・まき夫妻とともに北海道旧官営の桑苗園の事務所を改造して住まいとした』と書かれていますので、明治8年に旧庄内藩士が桑園を開墾した時に宿泊した建物を改造して住居にした可能性はありますが、昭和10年5月4日の北海タイムスの記事「札幌三井クラブ閉鎖」によれば、この建物は明治22年築とのことで、建物が完成したのは計画から2年ほどかかっていますので、旧庄内藩士が桑園を開墾した時に宿泊した建物を少しばかり改造したものではなくて、新築のように思われます。

 この当時の森源三邸付近の「札幌市街之図(明治22年7月出版)」です。ただし、この地図は西13丁目までで、森邸があった西15丁目付近は市街地の外であったため、描かれておりません。付近は桑畑と川があるだけで、未だ住居などはほとんどありませんでした。


森源三邸付近の地図
(札幌市街之図、明治22年7月)

 なお、記載されている内容から判断すると明治20年頃の状況を示した地図と思われます。また、北一条通りと西11丁目通りの以外の道路は、桑園の園内道路で、明治15年に作成された「札幌養蚕場 第一号桑園」の地図にも描かれています。

 7月19日、第二回北越親睦会が南二条の料亭・東京庵で開かれました。
 『予ねて広告にも見へし如く、去る十六日は同会を東京庵で開きしに、小樽、石狩、樺戸、江別等より続々来集し、無慮八十余名の会合にて、午後四時頃、一同席に着き、坐定まりし時を計り、森源三氏、発起人総代として開会の趣意を述べ、次きに里村太利、大谷博愛、下野熊太郎氏等の諸氏の席上演説あり。夫れより、杯酒献酬(はいしゅけんしゅう=お酒を酌み交わすこと)の間に、且つ談、且つ吟じ、相舞い、相謳ひ、頗(すこぶ)る円滑の懇親をなして散会せしは午後十時過なりと。』(北海新聞「北越親睦会の景況(第2回)」、明治20年7月19日)

 11月、それまで江別の北越殖民社で開拓を進めていた笠原文平は、現在の札幌市北区篠路6条7丁目にあった篠路の味噌・醤油工場の経営を樺戸集治監から引き継ぎました。
 明治22年10月1日の北海道毎日新聞の記事「本道工業会社業務一班」には、『篠路味噌醤油醸造所は明治二十年十一月の創立に係り、役員三名、職工二名、雇人十三名あり・・・』と書かれています。
 また、明治31年10月13日の北海道毎日新聞の記事「札幌昔話・深谷鉄三郎氏の談(三十九)」には、篠路での醤油・味噌製造のことが次のように書かれています。

 『篠路の製造場は、製造の品物は勿論、原料も沢山あったので、其の儘(まま)で沢口永将と云う者に払い下げたが、この人は餘り善くない人と見えて、其の醤油味噌は勿論、原料まで売り飛ばして、非常に開拓使へ迷惑を掛けて、逃亡をしてしまった。
 其の内、明治十二年に樺戸の月形村へ集治監が出来たので、囚人の造った麦を以って、囚人に醤油味噌を此所で製造させる事になって、総てを開拓使から集治監に譲ったので、集治監では角一、角二、角三と云う印を付けて売り出した。
 此の製造品の一手販売人は樺戸集治監の御用達をして居た南二条に居る山角印でしたが、其の後、集治監でも何分樺戸と篠路とは相応に隔たって居て、監督上大いに差支えると云うので、遂に人民に払い下げ、今では越後出生の人で立原某(正しくは、笠原)と云う人の所有で、ご存知の通り、今日まで篠路醤油と云って盛んに製造し居りますが、此頃では内地へも輸出する程の勢いだそうです。』

 「北海道の夜明け」に、『森源三が函館の富商渡辺孝平と、しようゆ・みそ醸造業を営み…』と書かれていますので、笠原文平が篠路の味噌・醤油工場引き継いだ時、この2年後の「札幌木挽所」の創立と同様に、森源三と函館の富商渡辺孝平が関係していたものと思われます。

明治21年(1888年)

 「北海道練乳製造史」によれば、森源三の次男の『河井氏の畜牛趣味は、15~16歳の少年時代、札幌農学校雇教師ブルークス氏の帰国に際し、その愛養していたエアシャー種乳牛1頭を森家に寄贈したことに始まり』とあります。

 札幌農学校雇教師のブルークス氏は明治21年に帰国していますから、このころから森家では牛を飼い始めたようです。また、明治13年生まれの河井茂樹のこの時の年齢は15~16歳ではなくて、8~9歳になります。

 この年、森家四男の森四郎が、開校間もないスミス女学校(北星学園大学の前身)の幼稚園に入園しました。4年後の明治24年迄在園しています。(北星学園大学「スミス先生日記」)
 当時のスミス女学校は森源三邸から比較的近い北1条西6丁目にありました。

亀田外三郡長の時代

明治22年(1889年)

 3月10日、江別の北越植民社を創立した一人の大橋一蔵が交通事故で亡くなり、東本願寺別院で開かれた追悼会の発起人として参会しました。追悼会には、北海道庁の浅羽、細川理事官、古川札幌区長、菊亭修李など百余名が来会したとのことで、宴会では、森源三が大橋氏の遭難当日の情況を具(つぶさ)に演述したとのことです。(北海道毎日新聞、明治22年3月12日)

 3月28日 河井継之助の母・貞が、86歳で病没しました。
 その遺骨は、長岡の栄凉寺に葬られました。法名峰寿院操誉妙雲大姉。(河井継之助記念館会報「峠」7号)

 この年、森源三と笠原文平により、「札幌木挽所」が創立されました。
 「札幌要覧」(明治39年10月)に、『札幌木挽所 明治22年に創立せられ、北1条東3丁目に木材ひき割並びに販売に従事し、持ち主は森源三、笠原文平両氏なり』と記載されています。

 また、北海道立図書館の「笠原格一家文書」のホームページには、『笠原文平は札幌木挽所、北海造林会社(手稲村)、酒造店の千歳屋(江別太)、丸木製軸工場(苫小牧)の経営など手広く実業に関わっている』とあります。

笠原文平(後の格一)
下段真中の人物
(越後三条の歴史・ホームページ)

 さらに、「北海道の夜明け」によりますと、森源三は『自治制施行のさい札幌区長となった對馬嘉三郎と共同で、札幌木挽所の払い下げを受けた。札幌木挽所は、開拓使時代の木工所・蒸気機械所・水車機械所を合併したもので、払い下げを受けてできた札幌木工所は、当時、最新式で最大の設備をもち、その後の木工業の基礎となるものであった。木工所の実務には、函館の富商の渡辺孝平の代理として、越後出身であり、札幌でしょうゆ醸造業を営んだ笠原文平が、かなり関与したと思われる。木工業関係ではこのほか、(苫小牧で)マッチ軸工場を経営しているが、マッチの軸木は、当時外国貿易品であるマッチの原料として、また、本道産の木工品として、重要な位置を占めていた。これは、本道に豊富な白楊樹(はこやなぎ)を原料として、資本の大小を問わず製造に着手できたため、道内各地でもっとも盛んになった産業であった』とあります。

 この時、創立された札幌木挽所について思い出話が、明治31年8月27日の北海道毎日新聞の記事「札幌昔話 深谷鉄三郎の談(二十一)」)に残されています。

 『第一の水車の出来たのは、今の豊平館(大通り西1丁目、現在の市民会館跡)の前の處でしたが、其れは別段変わった水車でなく、従前の物と同様でしたが、第二の水車は今の木工所の處へ出来たのです。
(途中略)
 さて、此の第二の水車は明治4年(「新札幌市史」によると、明治5年)の春、初めて営繕局で据え付けたので、米国教師(N.W.ホルトと思われる)で名前は記憶しませんが、その人の設計で出来たので、今日まで日本で使用していたものとは違って、全体が水中にあるので、外からは少しも見へません。その形はお椀のようなもので、其れに幾つも窓が付いていて、其の窓の開閉によって車を速く回す事も、遅くする事も出来る仕掛けになって居るものです。是れを据へ付けた上、其の水車の力で材木を引き割り又は穴を明けるなど、種々の機械が据え付けになりました。

 此れと同じく米利堅(メリケン)の蒸気で動かす木挽機械も据え付けられた(サンドフォード・クラーク指導)が、此の機械は大小板は勿論、縦横大小何れへも自由自在に木材が伐れる様になって居て、一日に百五十石から二百石位まで位の木を細かに致します。

 又、大材は三尺五寸角位までのものは此の機械にかけられ、二尺以上の角になると、鋸が二枚で上下から挽き割る様に出来て居まして、実に立派な機械場でしたが、此の水車は今では森源蔵さん(森源三の間違い)が引き受けて、札幌木挽場と云って使って居りますが、以前は勿論、今日に至っても、市中の上等普請は皆んな此の木工所の機械で挽き割ったのが宜しいと云って使って居ます。』

 11月、森源三は、明治21年に道南の茅部郡役所および山越郡役所と亀田、上磯郡役所が合併して亀田外三郡役所となり、七飯村に開庁した亀田外三郡の郡長になりました。

 後の新聞記事に、『明治二十二年十一月、亀田上磯亀田上磯茅部山越郡長に任せられ、奏任官四等に叙せられ(以下省略)』とあります。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 また、函館市地域史料アーカイブによりますと、『明治22年2月、亀田外3郡長に森源三(札幌農学校長)を発令』とありますので、11月まで就任を拒んでいた可能性があります。

 以下は、森源三が亀田外三郡の郡長に任官した時の様子が良くわかる明治43年6月2日の北海タイムスの記事「森源三氏危篤(上)」です。

 『農学校長の休職年期が切れるので、モウ二、三年も継続しないと恩給にかからないので、同(永山武四郎)長官が水産課長伊藤一隆氏(農学校二回卒業)に申し含めて、森さんに亀田郡長の職に就く事を勧告させました。
 處(ところ)が、森さんは頑として応じなかったので、笠原氏などが傍に在って、子孫後代の計を説いて、休職期限の切れる当夜十二時に笠原氏と奥さんとで、亀田郡長任命の辞令を御受けしたということです。
 地位は低いけれども、ソンナ事には頓着なさらん方でした。』

明治23年(1890年)

 森源三の長男・森廣が齢15歳にして、札幌農学校の予科に入学しました。(有島武郎の世界)

明治24年(1891年)

 3月、森源三は、明治22年11月から務めていた亀田郡外三郡長を非職となり、7月には、願いにより約20年にわたる官吏の職を辞しました。(北海タイムス「森源三氏の略歴」、明治43年6月2日)

 官吏を退官した森源三は、雨竜郡の旧菊亭農場の一部を譲り受けて経営したほか、札幌の木工所(開拓使の木工所、蒸気機械所、水車機械所を併合して「札幌木工所」と称し、道庁時代に払い下げたもの)、苫小牧のマッチ軸木工所等の経営にあたったとのことです。(「森源三」、さっぽろ文庫50「開拓使時代」)

 9月、後に日本の近代酪農を開花させた「宇都宮仙太郎」が、森源三邸の西北角(北2条西16丁目)を借りて、牛乳屋を開きました。(「旧三井クラブ」、さっぽろ文庫23「札幌の建物」)

 札幌市白石区のホームページ「日本近代酪農発祥の地 - 宇都宮牧場跡」によれば『明治24年9月、町村金彌から牛2頭と金200円を借り、森源三の土地(北1条西15丁目)を借りて牛乳屋を始めた』と書かれています。

 9月27日の北海道毎日新聞に掲載された牛乳販売広告には、『北1条西15丁目桑園内 宇都宮仙太郎』となっています。

宇都宮仙太郎の牛乳販売広告
(北海道毎日新聞、明治24年9月27日)
(札幌市公文書館)

 「北海道練乳製造史」によれば、『北海道乳牛界の元老宇都宮仙太郎氏が米国より帰って、森邸(現三井倶楽部)付近において乳牛を飼養し、河井氏(森源三の次男、河井茂樹)に対して乳牛飼養を勧めた』とあります。

 なお、宇都宮仙太郎は一時上京して牛乳販売しますが、東京進出はうまくいかず、明治31年9月、再び札幌に戻って、「札幌バター」の製造に取り組みました。(「北海道農業・酪農の基礎を築いた先駆者たちの足跡とその業績」)

 「大通」(さっぽろ文庫50「開拓使時代」)にも、『明治31年、宇都宮仙太郎が酪農経営を再開しますが、その場所は大通西8丁目(大通公園の鯨の森があるあたり)で、六頭の牛を飼って、市中に牛乳を売り歩いた』と書かれています。また、これを裏図けるように、札幌古地名考ホームページの「鯨の森」には、市政功労者の木下三四彦氏が生前筆者に、『師範学校(現教育大)にかよっていた頃、鯨の森の樹影には宇都宮牧場の牛が何頭も寝そべっていた』と、語っていたとのことです。

退官後の活躍と子供たちの成長

明治25年(1892年)

 この年、森家五男の森五郎が、兄の森四郎と同様、スミス女学校の幼稚園に入園しました。明治25年から3年後の明治27年迄在園しています。(北星学園大学「スミス先生日記」)

明治26年(1893年)

 『侯爵菊亭脩季は公卿出身で、明治12(1879)年に渡道し、1879年3月から開拓使御用掛となって勧業課に勤務し、廃使とともに農商務省勤務となり、ついで事業管理局札幌農業事務所設置により、副所長として源三を助けた人でした。

 明治24年、三条実美の死により、(現在の妹背牛町にあった)雨竜のいわゆる華族農場が崩壊したあと、独自に6,429ヘクタールの貸し下げを受け、奈良県十津川村の移民百戸のほか、数多くの小作人を入れて開墾につとめていましたが、このなかから、この年、源三に550ヘクタールをゆずり渡しました。

 森源三はこの未墾地を、志賀定七と吉村文四郎には共同で100ヘクタール、五井伊次郎・水野ヤス・三島徳蔵と自分には100ヘクタールずつ、残りは、長岡生まれで23歳になった札幌農学校第一農場現業生の柳田静一郎に分割しました。

 しかしこの年、道庁に勤めていた義弟内田瀞が休職となったため、100ヘクタールの所有者から10ヘクタールずつを提供させ、50ヘクタールとして内田にあたえました。
 この農場では、当時理想とされていた牧畜を取り入れる混同農業を目ざし、新しい技術を導入して経営にあたりました。内田などは、洋式農具をたくさん持ち込んだほどで、土地の人が“七か農場”とよんだこの農場は、やがて、全部成功付与を受けました。』(北海道の夜明け)

 『内田瀞が休職となった』とありますが、本当のところは妹背牛の開拓を進めたい内田が望んで休職にしてもらったと言われています。

明治27年(1894年)

 5月31日、肺結核症にかかっていた河井継之助の妻・すがは、百方医療を施しましたが、薬石効なく、遂に亡くなりました。享年61歳でした。法名は温良院殿賢誉妙了大姉です。(「河井継之助伝」今泉鐸次郎著)

 『雪明かり 吐く息つらし わが病』
 これは、すがが病の床で詠んだ歌です。(河井継之助の妻「すが」の証言)

 「子孫が語る河井継之助」によりますと、母、貞の死後、『あまりにも寒い北海道の地での生活に耐えられず、ひそかに長岡へ戻り、明治27年、59歳の生涯を終えるまで生活していた』とあり、「全国版幕末維新人物事典」の河井すがの項を見ますと、「江別で病没」とありますが、その出典等根拠が記載されておらず、真偽のほどは不明です。

 明治27年2月発行の「北海道実業人名録」には、「札幌木挽所」と代表者の「森源三」の名前が見られます。


札幌木挽所 森源三
(北海道実業人名録、明治27年2月)


札幌木挽所があったところ
(札幌実業家便覧、明治28年3月)

明治28年(1895年)

 長男・森廣は札幌農学校の予科を終え本科に進もうとする春、走り高跳びをしていて左足首をねんざしてしまいます。複雑骨折の疑いもあり、当時の札幌の病院では治すことができませんでした。足を切断するようなことになったら大変なので、両親はいちるの望みを託して汽車、船を乗り継いで少年をはるばる東京へ向かわせ、東京大学の付属病院に入院させました。(ポプラ物語)

明治30年(1897年)

 明治20年から篠路で味噌・醤油工場を操業していた笠原文平は、札幌と茨戸を結ぶ石狩街道が整備された明治30年頃に、交通の便の良くなった札幌市街(北1条西14丁目、森源三邸の東隣)に醸造所を移転しました。(「みそ・醤油」、さっぽろ文庫7「札幌事始」)


笠原文平の味噌・醤油工場
(札幌市制紀念人名案内図、大正11年)

 6月25日の北海道毎日新聞の記事「笠原氏の寄付」によれば、『当区の笠原文平氏は日本体育会北海道支会人入館へ金百円を寄付したりと』とありますので、工場の移転はこの日より前に行われたようです。なお、前年の昭和29年8月29日の北海道毎日新聞の広告「新潟県出身有志諸君に訴う」によれば、『地方の部』に名前が記載されており、まだ札幌在住ではありません。

 山岳画家で有名な坂本直行氏の思い出「知事公館のあたり」(さっぽろ文庫2「札幌の街並」)によると、『森邸の東側の14丁目は、軟石の高い塀をめぐらせた「カクイチ」という醤油製造所があって、いつも麦や豆を煮る香りが流れてきた。面積は一丁四方あって、住宅には百畳間もある大きなもので、たしか笠原といったと覚えている』とあります。

 「有島武郎の世界」によりますと、東京大学の附属病院に入院していた森廣は、『その傷癒えんとして癒えざるもの2年、手術台上に上ること前後22回、麻酔を施さるること11回、遂に蹠(セキ=足裏)関節より切断するの止むを得ざるに至れり。(途中略)義足の幇(ホウ=助け)け無くして歩行し得ざるの身となれり』とあります。

 この時、東京大学の附属病院には、四歳年上の“碧川かた”というキリスト教徒の看護婦がいて、森少年の苦悩を見かねて、キリスト教に救いを求めるように熱心にすすめました。(ポプラ物語)

 10月、森廣は東京大学病院を退院し、札幌に戻ります。(有島武郎の世界)
 東京から札幌へ帰る途中でしょうか?10月11日に「胆振勇払沼」で鳥の「オオバン」2羽を捕獲し、後に札幌農学校所属博物館に寄贈しています。(「札幌農学校所属博物館における鳥類標本管理史(1)」)
 現在の苫小牧周辺に「勇払沼」という名前の沼はありませんが、ウトナイ湖の周辺ではないかと思われます。

 札幌に戻るとすぐに、札幌基督教会で洗礼を受けました。(ポプラ物語)

明治31年(1898年)

森源三の家族(10人)(明治31年)
左端が長男の森廣、森源三(中央)の後ろが次男の河井茂樹
(北海道大学「北方関係資料」)

 森広の弟妹たちは、次のようになっています。

次男・茂樹(記載なし、河井家の相続者
三男・三郎(明治16年8月18日生)
四男・四郎(明治19年12月27日生、広死亡即日森家戸主)
五男・五郎(明治21年8月16日生)
六男・路九郎(明治24年8月21日生)
長女・マツヨ(明治27年5月8日生)
次女・秋子(明治30年9月15日生)

 さらに、森廣や有島武郎と札幌農学校で同期の井街顕と後年結婚した養女テル(明治16年11月2日生。飛島多三郎長女)の記載があります。(「有島武郎の世界」)

 「札幌農学校予修科に関する一考察」(北海道大学文書館年報、2019年3月29日)によりますと、次男の河井茂樹の生年は、明治13年(1880年)となっています。また、河井茂樹は、この年に創設されたばかりの札幌農学校予修科に入学しました。同書によると、札幌尋常中学校(5年級)卒業となっていますが、この年(明治31年)の札幌尋常中学校の卒業生名簿に名前はありません。ということは、明治30年の札幌尋常中学校第一回卒業生ということになります。
 なお、札幌農学校予修科には、明治31年と32年の2年間、在学しています。しかし、明治32年(第1期)と33年(第2期)の予修科の卒業生名簿に河井茂樹の名前はありませんので、卒業はしなかったようです。また、札幌農学校本科の卒業生名簿にも名前は見当たりませんので、札幌農学校の本科にも進学しなかったようです。

 5月、森廣らを中心とする札幌農学校学芸会会員の自力で名著『札幌農学校』を世に送りました。(「札幌農学校」札幌農学校学芸会、明治31年9月2日)

 7月、森廣が札幌農学校の本科に進みます。(有島武郎の世界)

バイオリンを楽しむ農学校の学生たち、明治31年頃
左から順に森本厚吉、有島武郎、森廣
(帝大生ゆめじの大道芸日記ホームページ)

 札幌農学校(本科)に入学後の写真ですが、この写真は前の写真と比べ森廣の姿が大人びて見えるので、明治31年頃とありますがもう少し後の写真のように思われます。

 9月15日、妹背牛町開拓の祖であった森源三が有志と図り、妹背牛神社の社殿を建立し、札幌神社より御分霊を奉斎しました。(「妹背牛神社」、北海道神社庁ホームページ)
 また、この年、妹背牛小学校の創立に際し、森源三は子弟教育のために学校敷地を寄贈しました。(「子孫が語る河井継之助」)

 10月、「北海道造林合資会社」が手稲村に設立されています。(「日本全国諸会社役員録」、大正4年)


北海道造林合資会社
(日本全国諸会社役員録、大正4年)

 「北海道人名事典」の“笠原格一”には、『明治31年に、有志と北海道造林合資会社を設立して重役の一人たりしが、後に推されて社長に就任す』とあります。

 森源三が、『軽川(手稲の地名)で養樹園を経営したとも云われている』と、「北海道の夜明け」に書かれていますが、どの程度関与したのかわかりません。
 なお、大正4年の時点では、笠原格一の長男・笠原文平が監査役となっています。

 11月3日、森廣が中心となり、当時札幌農学校の教授であった宮部金吾を舎長として、北4条東2丁目に札幌独立基督教会「青年寄宿舎」が創立されました。(北大青年寄宿舎日誌ホームページ)
 森源三と笠原格一は創立に際して資金的援助をした模様です。

明治32年(1899年)

 3月2日、札幌尋常中学校の3年生であった森四郎が青年寄宿舎に入舎します。(北大青年寄宿舎日誌ホームページ)

 3月、河井茂樹もキリスト教に理解を示し、札幌基督教会青年中等部に籍を置きました。(ポプラ物語)

 6月11日、札幌尋常中学校の4年生であった森三郎が青年寄宿舎に入舎します。
 8月5日、森三郎と(長岡出身の)根岸泰介が小樽へ行くとあり、8月9日に根岸泰介は帰舎していますが、この日以降、森三郎に関する記録はありません。(北大青年寄宿舎日誌ホームページ)

 「北大青年寄宿舎日誌」には、入舎や退舎の時など、必ず名前が記載されていますが、森三郎に関しては退舎の記録は残っていません。さらに、明治33年以降の札幌中学校の卒業生名簿に森三郎の名前は見当たりません。

 11月、札幌区会議員の総選挙があり、森源三と笠原文平がともに区会議員となりました。(札幌区史)

 明治32年頃の森源三邸付近の地図を示します。明治30年に森源三邸の東隣に笠原文平の味噌・醤油工場が移転した以降も、森源三の所有地周辺に住居等はごく僅かしかありません。この地域に住居が増えていったのは明治末頃からのことになります。

札幌市街之図
森源三邸付近の地図
(札幌市街之図、明治32年)

 地図には現在のように道路が碁盤の目に描かれています。札幌区史によると、この付近の道路ができたのは明治23年11月と記載されていますが、明治34年末頃、高等女学校建設計画に関する新聞記事の中で、この付近の道路は北1条通り、北5条通り、西11丁目通りしかなく、女学校を建設する前に道路を造成する費用が必要だと書かれています。

明治33年(1900年)

 7月21日 札幌基督教会の青年寄宿舎が新築され、午後3時より落成式が開催されました。森廣も祝辞を述べています。(北大青年寄宿舎日誌ホームページ)

 札幌基督教会の日曜学校長となった森廣は、教会の再興について建議する七人の代表者となって協議を重ね、この年、牧師の反対を押し切って、教会の名称を札幌基督教会から「札幌独立基督教会」に改め、牧師から典礼を除き、牧師の選任は教会常議員が候補者を選んで総会で決めることとしました。(ポプラ物語、札幌独立キリスト教会・ホームページ)

 8月23日、開拓使長官や総理大臣などを務めた黒田清隆が、東京で亡くなりました。59歳でした。
 10月6日の北海道毎日新聞の記事「故黒田伯記念碑建立」には、『区の有志、対馬嘉三郎、森源三氏外二百余名の発起にて、大通りに銅像か若しくは石造の大記念碑を建設せん為め、舊(=旧)開拓使の官使並びに在東京の有志と謀り、来る一周年祭までには是非竣功せしめんと、目下夫々奔走中なりと云う』と伝えています。

明治34年(1901年)

 6月、森廣は札幌農学校同級の川上滝弥と共著で、「花」という本を書き上げています。(「はな」川上滝弥、森廣共著、明治35年4月8日)

 7月9日、森廣は札幌農学校を卒業しました。(第19期生)

札幌農学校第19期生卒業記念、明治34年7月
最後列の真ん中が森廣
(北海道大学「北方関係資料」)

札幌農学校農経農政学専攻卒業記念(第19期)明治34年7月
森廣(右端)
(北海道大学「北方関係資料」)

 8月10日、第一回道議会選挙があり、札幌区の定員一人、有権者985人、政友会の谷七太郎のほか中西六三郎、山崎孝太郎が立候補しましたが、谷の金権と勢力に対抗できず辞退し、谷独走の形となりました。ところが選挙前々日になって、実業派から森源三が推されて立ち、官僚・農学校が応援して、形勢にわかに不穏になりました。結局、谷326票で当選し、森は226票にとどまりました。買収、暴行がすさまじかったと伝えられています。(「選挙」、さっぽろ文庫7「札幌事始」)

 8月21日、森廣は農商務省実業練習生として三年間アメリカのシカゴに留学しました。留学に先立ち、河井茂樹の札幌中学校での友人、佐々城祐の姉で佐々城信子という人と宮部金吾の仲人で婚約し、内村鑑三氏らの壮行会を受け、横浜港を出港しました。(ポプラ物語)

 なお、佐々城信子は、これより前に国木田独歩と結婚後、すぐに離婚しています。結局、森廣は佐々城信子とは結婚しませんでした。その理由を知りたい人は有島武郎の小説「或る女」をお読みください。その辺の事情が分かるとのことです。

 また、「ポプラ物語」には前述のとおり、『河井茂樹の札幌中学校での友人、佐々城祐』と書かれていますが、明治33年の札幌中学校の卒業生名簿(第四期生)に「佐々城祐、年齢19歳」とありますので、明治14~15年頃の生まれと推定されます。一方、河井茂樹については、明治30年に札幌中学校を卒業したようですので、「札幌中学校での友人」である佐々城祐とは、4年ほど学年が離れています。

 この年、笠原文平は「格一」に改称しました。(「笠原格一家文書」、北海道立文書館ホームページ)

明治35年(1902年)

 3月29日、森四郎が札幌中学校を卒業しました。(北海タイムス「札幌中学校の卒業式」、明治35年3月30日)
 また、日付は読み取れませんが、この年の春、森四郎は青年寄宿舎を退舎しています。(北大青年寄宿舎日誌ホームページ)

 森四郎は札幌中学校を卒業するまでの約3年間、青年寄宿舎に入っていたことになります。札幌中学卒業後のことですが、雑誌「自動車及び交通運輸 第4巻第7号」には高商を卒業したことが書かれています。当時「東商」といえば、東京高等商業学校(現在の一橋大学)ですが、「東京高等商業学校同窓会名簿 大正3年12月改正」を調べたところ、森四郎は明治40年に卒業していました。住所は、神田区猿楽町三ノ三、安田〇吾方でした。

 8月10日、第7回衆議院選挙が実施され、森源三は札幌区内から推されて、北海道で初めての民撰議院(衆議院)議員になります。(「森源三」、さっぽろ文庫50「開拓使時代」)

 しかし、源三は自分から進んで立候補したわけではありませんでした。多くの越後出身者や、それまで源三の世話を受けた人びとが推したのです。結果は、相手の候補者対島嘉三郎を196対193という僅少の差で破って当選しています。この年12月に開かれた第17回議会で、源三は同志倶楽部に参加しましたが、この議会は、政府が海軍増強のため提案した増租継続案が衆議院の強硬な反対にあって、20日たらずで解散となってしまいました。

 札幌へ帰った源三は周囲の勧めにかかわらず、二度と国会議員に立とうとしなかったということです。よわい66歳で、体力的にいっても年寄りなどの出るところでないというのが、近親者にもらした感想であり、その後は原始林に囲まれた自宅で余生を送ったとのことです。(北海道の夜明け)

明治36年(1903年)

 この年の4月に刊行された人事興信録(初版)によりますと、三男の「森三郎は同道雨竜郡へ分家し」と書かれています。明治26年から森源三により進められた妹背牛開拓の後を継ぐため、森三郎は分家したようです。

シカゴにおける札幌農学校同窓たち、明治36年
左から森広,大村卓一,仁木信雄,藤田昌
(北海道大学「北方関係資料」)

 森廣は、セントルイスで開く万国博覧会に日本館を出す準備と調査報告のため、いったん帰国します。(ポプラ物語)

 9月10日、札幌農学校同窓会の依頼により京都の洋画家小笠原豊涯氏が揮毫中だった森源三翁の肖像画ができあがり、この三日後には農学校に移されました。(北海タイムス「森源三翁の肖像」、明治36年9月10日)

 明治36年頃、河井茂樹(23~24歳)は乳牛20余頭を飼養して専ら生乳販売を行い、余乳をもってバターを製造していました。これらの乳牛は、札幌農学校より出たホルスタイン種と当時盛大だった根室の藤野牧場から出たエアシャー種でした。(北海道練乳製造史)

 12月22日の北海タイムスの記事「牛乳殺菌会社の創立」には、『札幌区に於ける畜牛結核予防法、去る六日より施行せられたる結果、ニ、三の罹病(りびょう)畜類を発見せられたるについては、一層完全の殺菌法を施行し、需要者をして安心せしむるの必要なりとて、一昨十九日、当区牛乳商は角長楼上に会合、諸般の協議をなしたる結果、区内の完全の殺菌所を設くることに決し、槇鍛、河井繁樹(茂樹の誤り)、藤田文平の三氏を設立委員に選びたる由』と記載されていますが、当時、札幌区内の牛乳販売業者は十数人と少なかったためか、牛乳殺菌会社が設立された様子はありません。

明治37年(1904年)

 森廣は、再び渡米します。
 この年の4月30日から12月1日まで、米国のミズーリ州セントルイスで万国博覧会が開催され、森廣は日本館の中で着物ハウスを運営しました。そして、ここで手伝ってくれていた唐沢美つという人(会津藩士・唐沢源吾の長女)と結婚します。(ポプラ物語)

 10月、勇払郡苫小牧村字アソヘナイにマッチ軸を製造する「丸木製軸工場」を笠原格一と河井茂樹の二人の名前で創立しました。(「北海道庁統計書 第19回」、明治40年)

明治38年(1905年)

 森廣は博覧会を無事に終えて、この年、米国で設立した「北太平洋貿易会社」の副社長として、実業の世界へ乗り出します。(有島武郎の世界)
 また、美つ夫人はピアノを習い始めています。(ポプラ物語)

 1月19日の北海タイムスの記事「札幌区内牛乳検査成績」によると、河井茂樹が販売している牛乳の試験成績結果が報告されています。

 8月、森源三の妻・まき夫人の弟の根岸錬次郎が、自分の子供たちを森源三のもとで農業を学ばせるため、勤務先のロンドンから札幌の森源三邸に子供たちを一時帰国させています。(子孫が語る河井継之助)

明治39年(1906年)

 1月、「合資会社 札幌木挽所」が設立されています。代表社員は「笠原格一」です。

日本全国諸会社役員録
合資会社 札幌木挽所
(日本全国諸会社役員録、明治40年)

 「北海道人名辞典」の“笠原格一”に、『森源三、對馬嘉三郎、渡辺孝平の3名が共同して官営の札幌木挽所を払い受けるにおよび、笠原格一が渡辺孝平の代理となって専ら事業の監督を任じ、次いで同所の持ち株全部を譲り受けて、その社長となる』とあります。

 明治22年に創業した札幌木挽所は、笠原文平が持ち株全部を譲り受け、明治39年になって正式な会社組織となり、笠原格一が代表社員に就任したものと思われます。しかし、何があったのか分かりませんが、その一月後の明治39年2月15日付で札幌区裁判所に『笠原格一ハ札幌木挽所ヲ廃止ス』と登記し、2月17日の北海タイムスにその広告を出しています。

 この年、河井茂樹は札幌木挽工場経営の準備として、木材工業研究のため、シカゴメカニカルカレッジに留学しました。

 しかし、その途中で練乳製造の研究を思い立ち、インデアナ市のグリンフィールド工場で、技師長ビンセント技師と職工長ケル氏から、練乳製造の指導を受けました。なお、グリンフィールド工場は実兄の森廣と縁故のあったところで、日露戦役の際、同工場主と森廣が共同で、同工場産の練乳を「全勝」と命名して、五千ドル相当のものを日本軍に寄贈したことなどもあったそうです。

 その後、スノーコールにあるメードブロック農場で、当時同農場で無糖錬乳の製造を担任していた松田三作氏(後の小松三作氏)から練乳の製造方法について指導を受けています。(北海道練乳製造史)

 この年の9月10日から9月30日まで、中島公園で「北海道物産共進会」という博覧会が開催されました。森源三邸からは岩淵利助という人と乳牛1頭が共進会の搾乳競争に参加しています。また、森邸周辺の2軒の農家からも参加しています。(北海タイムス「畜産協会搾乳競争」、明治39年9月13日)

 「牛乳」(さっぽろ文庫7、札幌事始)によると、岩淵利助という人は、明治19年頃、札幌で初めて大通西5丁目に「乳楽軒」と号して牛乳販売店を始めたとされています。明治38年までは新聞に乳楽軒の広告が見られますが、明治39年からは留学中の河井茂樹に代わって、森源三の邸内で牛乳を販売していたものと思われます。

明治40年(1907年)

森源三夫妻、明治40年頃
(北海道大学「北方関係資料」)

明治42年(1909年)

 3月24日、森家六男の森路九郎が札幌中学校を卒業しました。

 明治30年頃、篠路から森源三邸の隣に引っ越してきた笠原文平の味噌・醤油工場が、この年の4月になって正式に会社組織となっています。

日本全国諸会社役員録
合名会社 笠原商会
(日本全国諸会社役員録、明治45年)

 6月上旬、森廣は約8年間の米国滞在を終え、妻を伴って帰国します。(ポプラ物語、有島武郎の世界)

 帰札後、邸内の東南の角(現在、北一条西交番のあるあたり)に、農具機械類の輸入、種苗生産販売の「寿仙園」を開きます。(「旧三井クラブ」、さっぽろ文庫23「札幌の建物」)

 大正元年から昭和2年まで森邸の北一条通を挟んで南側に住んでいた山岳画家の坂本直行氏が、『この邸宅の東南の角には、寿仙園という種苗商の店があり、そこから北三条近くまでは、採種の花畑があって美しく、よく花を見に遊びに行った。その店の西側に温室があったが、これは火事で全焼して、私の楽しみは消えてしまった』と書いています。(「知事公館のあたり」、さっぽろ文庫2「札幌の街並」)

 また、「三井の集会所」には、『北1条西15丁目の角には、何を販売したのであろうか、道路に面してStoreが配置されていた』とあります。

寿仙園
北1条西15丁目、寿仙園附近、大正3年3月8日
北一条通り沿いを西向きに撮った写真
右端の建物が寿仙園、写真の真ん中に森邸の建物が見える
(「北海道古写真」、北海道大学付属図書館蔵)

 この年、河井茂樹も米国留学から帰国しました。
 帰国すると直ちに、森邸の北隣にある自分の土地(北3条西16丁目)で練乳工場の建設に着手しました。(北海道錬乳製造史)

最新札幌市街図
河井茂樹邸
(最新札幌市街図、明治42年3月 富貴堂)

 当時の地図を見てお分かりのように、この付近にはまだほとんど住宅や建物は建っておらず、ほとんどが畑地でした。また、森源三邸内のキムクシメムを源とする川が北の方角へ流れ出していました。

 この年、森源三は自分が持っている北海道造林合資株式会社の株を全て笠原格一の長男・笠原文平に譲渡しました。また、マキ夫人と次男の河井茂樹は、札幌木挽所の株を全て笠原文平に譲渡しました。(北海タイムス「商業登記広告」、明治42年10月10日)

明治43年(1910年)

 4月24日、「青年寄宿舎日誌」に、『当舎先輩農学士・森廣さんより松苗110余本ご寄付あり、丹治、小松原、小熊君等のご尽力にて舎前に植える』と記録されています。

 森源三が長岡にて発病し、5月27日に危篤となりました。

 6月3日、長岡で逝去しました。享年76歳でした。

 亡くなった日付について、多くの資料には明治43年6月とのみ記載されていますが、「子孫が語る河井継之助」には6月1日、一部の資料には6月4日と書かれています。しかし、6月10日の北海タイムスに掲載された札幌区裁判所の法人登記公告によりますと、『森源三ハ明治四拾参年六月参日死亡』とのことです。

 なお、6月3日付にて、勲六等瑞宝章を授けられました。明治43年6月3日付の官報には、『叙従六位森源三』と記載されています。

 6月2日の北海タイムスの記事「森源三氏危篤」には、この時の様子が次のように書かれています。
 『札幌の元老森源三氏が今朝(一日)、郷里越後長岡で病気危篤との報を聞くや、記者は取り敢えず北一条西十四丁目(十五丁目の間違い)の森氏留守宅を訪れた。
 青葉、若葉の茂れる門を潜り入ると、昨日迄も鑿鉋(ノミ、カンナ)の音喧しかりし(かまびすしかりし=騒がしかった)構内、新宅の工事は今朝からバタリと聲を止め、中止の姿となりしのみか、池に沿った仮宅の邉(ほとり)までも人の気配なく闃然(ひっそり)と物寂しく感じられた。
 (名)刺を通ずると伏目勝ちなる翁の長男廣氏夫人(美つ夫人)が玄関に迎えて、応接間に案内され、記者の見舞いの言葉と問いに対して、
 「父上は今年七十六歳になります。
 毎年避寒の為め、上京致しておりますが、昨年の初冬にも例によって避寒のため上京致したのです。
 元来、健康は餘り勝れぬ方でしたけれど、さして病気という程でもありませなんだが、何分老年の事ですから、治療もなかなか困難でしたろうと思われます。
 先達ての手紙に依りますと、父上は墓参の為め、郷里長岡に帰省して居りまする内、胃痙攣を起こし、長岡病院に入院中、腸の病気が併発したとありまするので、宅に居りました宿(森廣氏)は五月十八日、当地の逸見様(森源三邸の北隣、北3条西15丁目に在住の当時札幌で有名な逸見病院の院長)と同伴して一度見舞いました處(ところ)、余ほど病状も経過が良くなりましたので、一先ず逸見さんに帰札していただきましたのです。それが又、二十七日頃から病が改まりましたので…」と湿りがちに話しつつ、「宿の兄弟五人も急電によって残らず長岡に集まっている筈です。」・・・(以下省略)』

 この新聞記事にあるように長岡に集まった森廣の兄弟たちは、森廣のほか、次男の河井茂樹、四男の四郎、五男の五郎、六男の路九郎、次女の秋子の5人と思われます。

 また、同じ日の北海タイムスの記事「逸見病院長の談」には、次のように書かれています。
 『森さんは東京に居られた頃から加減が悪かったそうで、郷里越後の長岡へ墓参がてら赴く途中、汽車の中でも幾度となく下痢し、長岡へ着いてからも健康の勝れないのをアア言う元気な人だから押し通して親戚知己を訪問したり、墓参をしたりせられたと言うことです。

 そこで、段々気分が勝れなくなったので、同地長岡病院谷口博士の治療を受けられたが遂に入院されたのです。病症は腸加多見で、始めの中は重いとも思わなかったが、何しろ衰弱している上に、精神上の関係もあったものと見え、次第に重患に陥られました。
 子息廣氏は五月五日当地を出発し、長岡へ出向いて谷口博士と相談した處、今の處では左程危険もないと云い、それに段々軽快に赴いたので、廣氏は一旦十六日に帰札されました。

 然るに、翌十七日の電報で危篤を報じ来たから、廣氏は直ぐ引き返して十八日再び出発する事となり、私も同道することとした。

 二十一日長岡へ着いて見ますと、容体は頗(すこぶ)る面白くない。
   加うるに、非常に衰弱して、脈拍も一分間に十回も結体する有様、食欲は至って少量で、一日に牛乳を小茶碗に一、二杯を取ると言う始末でしたが、二十二日から少しく快気になり、食欲も進んで来る。同時に元気も出て来たようで、年の上だから油断は出来ぬけれど此の分なら先づ体したこともあるまいと、私も診断する。谷口博士も同様の見立てでした。

 私も忙しい身体ですから、二十三日帰札しましたが、其の後の電報に依っても、追々宜しいと云う知らせばかりで安心して居りました所ろ、二十七日、又も病勢一変し、発熱激しく、全く衰弱に陥られました。』

 8月28日、森源三の葬式と納骨埋葬が円山墓地で行われました。
 『札幌区の元老たる故森源三翁の遺骨は、今回、郷里越後長岡より到着したるを以って、昨二十八日午後一時、当区北一条の自邸に於いて、盛んなる葬儀を執行したるが、今其の光景を述べんに、同邸にては先づ新築の居宅及び緑滴る庭園に天幕を引き回し、会葬者、来賓席を設け、軈(やが)て午後一時となるや儀式を挙げ、先づ北海寺の住職導師となり、各宗の僧侶集まり荘厳なる読経あり、了(おわ)って河島長官(代理山田一部長)、札幌農科大学佐藤校長、青木札幌区長、浅羽代議士、日本赤十字社(札幌支部吉田幹事)、北海道協会二条公爵(代理対馬嘉三郎氏)、札幌農学校同窓会代表永谷農学士等の弔辞ありて、全く式を了りしは午後四時なるが、札幌区の各官衙、各銀行会社、公職者等、凡(あら)ゆる階級を通じ無慮一千名の会葬者あり、夫れより自邸出棺、山鼻の共同墓地(円山墓地)に於いて埋骨式を挙行したるが、近来無比なる盛大の葬儀なりしという。』(北海タイムス「森翁の葬儀執行」、明治43年8月29日)

 9月9日、笠原格一に勅定藍綬章が下賜されました。

 11月1日、偶然にも、長い間森源三と行動をともにしてきた笠原格一も亡くなりました。

 明治43年11月5日の北海タイムスの記事「故笠原格一氏」には次のように書かれています。
 『四月中旬、東京に於いて身体の具合悪しとて、一日臥床(がしょう=床に就いて寝ること)せしというが、同月末札幌に帰り、何分健康勝れざりし為め、逸見、秦両医の治療を受けつつありしに、遂に胃癌と変じたれば、六月三日再び東京へ向け出発、青山、入澤、近藤三博士の診察を受けたるに、異口同音、胃癌なりと断定されたれば、同じく十六日帰札、爾来逸見病院、奥村医学士を主治医として治療に手を盡(つく)せしが、殆(ほとん)ど臥床し居たり。近来、衰弱甚だしかりしも、奥村医学士は此の十五日頃迄は大丈夫なるべしとの事なりしに、一昨一日午後九時眠るが如く豪然永遠の床に入りぬ。享年五十九歳。』

 笠原格一の葬儀は11月5日、(国宝)松島瑞巌寺の松原盤龍禅師を招いて、札幌の新善行寺で営まれ、円山墓地に納骨されたとのことです。

 同じく11月5日、札幌農学校・青年寄宿舎の第11回創立紀念式が開催されました。森廣も招待され、演説しています。これ以降、亡くなる前の年の大正3年(森氏夫妻で出席)までの4年間連続して、創立紀念式に出席しています。(北大青年寄宿舎日誌ホームページ)

 この年、「札幌木挽所」の代表社員が笠原格一から長男の笠原文平に代わっています。(「日本全国諸会社役員録」、明治44年7月12日発行)

森廣の時代

明治44年(1911年)

 2月、河井茂樹の経営による「札幌酪農園練乳所」が現知事公館の北隣、河井氏所有地で華々しく練乳の製造を開始しました。

 酪農園練乳所の練乳は、三種の名称を付けました。その一は「孔雀印」で、これは東京方面に向けました。その二は「旭印」と称し、直営で北海道および東北地方に販売しました。その三は「金章印」と称し、専ら横須賀鎮守府に納入しています。(北海道練乳製造史)

 明治44年7月3日の北海タイムスの記事「楽農園練乳場」に、この時の様子が詳しく描かれています。
 『北三条西十六丁目に楽農園練乳場が創設された。園主は河井茂樹氏と云い、其の練乳場長たるのみならず、乳酪の製造長で、且は機械の発明製作者である。氏は多年米国に遊び、酪農製造事業を極めんが為め、火夫に入込んで、仔細に機械の構造から乳酪の秘伝を覚えたのだそうである。

 一昨土曜、中野主人(主任)の案内で同場を一覧したが、工場は左まで(=さほど)広からねど、真空釜から喞筒(=ポンプ)、冷却池、殺菌具に至るまで整頓具備しているが、この真空釜は河井氏自身の発明に係り、銅材を取り寄せ、札幌の鍛冶職を指揮して、昨年四月頃より製作に掛かり、一年間にして総て出来上がりたれば、此の二、三日試験的に毎日二石若しくは三石の牛乳を煮沸し、コンデンスミルクを製造している。

 品質の良否は我輩素人眼に識別し得ざれど、氏の抱負によれば鷲印(アメリカから輸入された練乳)以上の善良品を製作すると言っている。此の三石の牛乳をコンデンスミルクに仕上げると、五百罐を得るのだそうであるが、愈々(いよいよ)本製造に掛かるときは、一回に五石づつを製造する筈にて、原料さへ充分なれば十石を製造し得べしとのことだ。

 斯(か)かる洋式の真空釜を以って乳酪の製造業に着手するは、本道中、此の工場を以って噧矢(こうし=物事のはじまり)とするそうである。同場にては乳酪製造の外、更に玉蜀黍(トウモロコシ)を原料としたる飴製造に着手との言だ。』

 この新聞記事に書かれている「中野主任」ですが、河井茂樹と関係の深い人から想像すると、南一条西二丁目にあった中野時計店の二代目、中野四郎氏ではないかと思います。

札幌商工人名録
旭印練乳
写真は河井茂樹邸にあった練乳工場ですが不鮮明
(札幌商工人名録、明治44年10月)

北海道練乳製造史
河井茂樹氏
(北海道練乳製造史)

 河井茂樹氏の写真の撮影時期は記載されておりません。写真が掲載された「北海道練乳製造史」が出版されたのは昭和16年ですが、この時に撮影された可能性が高いと思われます。もし、そうだとしたら、明治13年生まれですので、この時の年齢は60歳頃となります。

 この年、森廣によって森源三邸の西棟部分や二階部分が増築されました。森源三が使っていた増築前の建物は、木造平屋建、和洋混合式間口十二間奥行六間とのことですが、残念ながらこの建物の写真は残っていません。(三井の集会所)

森源三邸
増築後の森源三邸(撮影:大正3年3月)
(「北海道古写真」、北海道大学付属図書館蔵)

森源三邸正門
森源三邸正門(大正3年3月4日)
(「北海道古写真」、北海道大学付属図書館蔵)

 「三井の集會所」には、『敷地面積17,162坪のうち、宅地の合計面積1,435坪以外はすべて畑地で、その大部分が果樹園、花卉園、苺などの果樹の苗床となっていた。・・(途中略)・・北1条通に面してFront Gateがあり、その表門を入ってMain Approachをしばらく西へ行くと、本館Residenceに到達する。・・(途中略)・・本館南側の庭園内には、北一條通に面して、Perpetual Springがあり、Bath Houseがそれに隣接していた』とも書かれています。

購入時の札幌別邸敷地図
中央下が北1条通りにはみ出ているキムクシメムとその上に森邸の建物
右下の角に寿仙園、右上の角にドーデー女史の住居
(三井の集会所)

 先に紹介した坂本直行氏の思い出によると、『この邸宅の北東の角には、木造のしゃれた住宅があり、そこにはドーデーという外人女性の年寄りが住んでいて(おそらく米国人)土曜日の午後には、付近の子供を集めて、庭のローンで遊んだり讃美歌を歌ったり、手作りのお菓子などを子供に与えていた。むろん私もこの仲間入りをしていたが、私には何よりもその手作りのお菓子が楽しみだった』とあります。(「知事公館のあたり」、さっぽろ文庫2「札幌の街並」)

ドーデー女史
ドーデー女史
(「洪庵・適塾の研究」梅溪昇著、思文閣出版)

 「洪庵・適塾の研究」によると、ドーデー女史は『ニューヨーク州チエナンゴ郡ギルフォード村に生まれ、同州アルバネー師範学校、マサチューセッツ州ピッツフィールドのメイプルウード専門学校を卒業し、教師になる。次いで宣教師となり、明治16(1883)年3月21日来日、大阪梅花女学校(現・学校法人梅花学園の前身)で英語を教えること9年(明治16年~25年)、鳥取で伝道に従事すること4年、明治30(1897)年札幌組合教会(元・札幌北光教会の前身)に転じた。同教会ではバイブルクラスに多くの青年学徒を集め、各地に婦人会や日曜学校を開校した。オルガニスト、日曜学校教師を務めたほか、病弱者を訪問し、岩見沢町・琴似村にも出かけて婦人たちの指導に当たった。大正8(1919)年に札幌で死去するまで22年の長きにわたって伝道、教育に挺身した。円山墓地に眠る』とあります。

明治45年(1912年)

 1月6日、森廣が北大青年寄宿舎の有志を招いて、かるた会を開催しています。(北大青年寄宿舎日誌ホームページ)

 同じく1月、森源三が邸内の庄内藩士宿舎跡に、大きな木の柱に桑園の歴史を記録していたが朽ちたので、この年、森廣がとなり近所の人々でこのことに関心を持っておられる方の賛同をいただいて、桑園がつくられた歴史を石に刻み、ながく後世の人々に伝えようと考え、「桑園碑」という石碑を建てました。(「桑園碑について」、桑園地区連合町内会ホームページ)

 「ポプラ物語」には、『日露戦争以降の軍国化が進む中で、森廣が桑園碑を削り取って、乃木希典将軍が書いた“国富在農”の書を彫った』とあり、著者の秋葉功氏が、当時ここに住んでいた父から『国富在農の書を彫っているのを見たことがある』と聞いています。

国富在農碑
国富在農碑
(北海道知事公館 – Wikipedia・ホームページ)

 昭和37年7月25日の北海道新聞の記事「百年のふるさと(22)知事公館」によりますと、『乃木希典の碑、公館庭園の東寄り、樹間に立つ石碑。「国富在農」(国ノ富ハ農ニ在リ)の碑文は、乃木将軍が妻静子と明治天皇の死をいたんで自刃した前年の明治四十四年、現公館の一角に住まいをもつ森広(第二代札幌農学校長森源三の長男)の願いに応じ、筆をとった。当時の乃木将軍は日露戦役で、第七師団(旭川)を主力とする第三軍指揮、部下から多くの戦死者を出したことを憂い、旧部下の遺族をたずねて歩いたが、そのつど「国富在農」を説いていたといわれている。碑文もこの信条の発露と郷土史家は説明している。記録によると、碑ははじめ公館の正面、北一条通りの真ん中に建立されたが、大正年間の道路拡張で、現在のところに移された。』と記載されています。

 ということは、「桑園碑」も「国富在農碑」も、北1条通りの真ん中に建てられていたのでしょうか?大正5年の地形図を見ても、北1条通りは西14丁目までしかありませんでした。先に紹介しました「北1条西15丁目、寿仙園付近」の写真を見てもわかりますように、大正3年当時の北1条通りは馬車1台が通れるだけの道路だったようですから、「道路の真ん中」と言うよりは、「自分の家の前」に建てたということなのでしょう。

 大正9年5月19日の北海タイムスの記事「札幌区土木工事」によりますと、大正9年の札幌区の土木工事予算に、北1条西16丁目から西19丁目までの道路改修費が計上されておりますので、この年札幌神社祭典十区により実施された北1条西20丁目から西25丁目までの神社通の開削工事に合わせて、札幌区による道路の拡張が実施されたようです。

 さっぽろ文庫45「札幌の碑」にある「国富在農碑」を見ると、『資料では建立は明治45年となっているが、裏面の日付はどうみても明治43年にしか見えない』とありますので、元々の「桑園碑」は明治43年に建立され、明治45年になって森廣が「桑園碑」を削り取って、乃木希典将軍の揮毫による「国富在農」の書を彫ったのでしょうか?
 それとも、昭和40年に復刻した「桑園碑」の背面の陰文に書かれている日付は、「明治四十五年一月」となっていますので、やはり桑園碑は明治45年に建てられたのでしょうか?
 さらに、陰文の内容も両者で違いが見られますので、桑園碑を削り取って「国富在農」の書を彫った時に、裏面の陰文も書き換えたのでしょうか?

 桑園碑の陰文に、『看雨学人村田峯次郎選 壷川 林文次郎書 鈴木藤次郎刻』と刻まれています。林文次郎という人は、明治35年まで道庁の職員で、明治39年からは山鼻町に住み、牧畜業に従事したとのことです。(「札幌の人」)

 3月、森廣は諸器械を製作する「札幌工作株式会社」を再興して取締役となり、専務取締役社長に就任しました。(「北海道人名辞典」)

 さっぽろ文庫23「札幌の建物」の「旧三井クラブ」によれば、『明治44年、札幌工作(株)専務取締役社長として同社の発展に努めた』とあります。

日本全国諸会社役員録
札幌工作株式会社
(日本全国諸会社役員録、明治45年)

 「最近札幌全区地主名簿(明治45年4月現在)」によれば、北3条西16丁目の所有者は河井茂樹となっています。また、北1条西15丁目の所有者は森廣となっています。

最近札幌全区地主名簿
森廣と河井茂樹の所有地
(最近札幌全区地主名簿、明治45年4月現在)

 一年前の明治44年7月10日に、北1条より北5条までの西10丁目以西の地域の有志により、同地の繁栄策を講じるため「桑園会」と称する団体が組織されましたが、明治45年6月25日の北海タイムスによると、『6月23日午後7時より、北5条西13丁目の札幌桑園会事務所で総会が開催され、森廣氏より曩(さき=先)に中学校敷地寄付の件に付き、解決までの経過および今回認可せられたる結果を詳細報告し・・・』と報道されています。

 ここにある中学校とは、この年に認可された旧制札幌第二中学校(現札幌西高等学校)のことと思われます。なお、同校は大正2年4月1日、北3条西19丁目に開校されました。

 12月20日の北海タイムスの記事「北一条の文明灯」に、当時の北1条通り付近の様子が次のように書かれています。
 『札幌区内北一条通は十一間幅の国道にて、白石村より一直線に西の方十八丁目まで通ぜる大道路なるが、区内も西に赴くに随って、漸(ようや)く寂歴(せきれき=物寂しい様)となり、殊(こと)に蚕業講習所あたりへ掛けては、怪しき出歯書生の出没する噂ありて、婦女子の脅かされし事実ニ、三に止まらず。之に加えて本年秋、十三丁目南側に裁判所の移転せしより、毎日柿衣の囚徒や深編笠がゾロゾロ通うようになりて、同方面は全く不気味の町となり、灯點し頃より女子供等は外出する事をも怖がり、此の冬と共にいとど寂れ行く有様なるより、同方面有志等、何とか景気回復の方法を講ぜむと寄々(よりより)考案中なりしが、該道路は西七丁目迄、市街電燈點り居れば、七丁目より更に十八丁目迄の間、四十本の電燈柱に一本毎に電燈を點する事とし、十丁目荒物商福田長松氏等、戸毎遊説に出掛け、尚電燈取付費を節約する目的にて、三箇月間の料金を森廣氏より前納し、愈々(いよいよ)右実行の運びに至り、不気味なりし西町も毎夜不夜城を現出して、町内商家は勿論、諸官舎在住者等も一同、文明灯の恩澤に浴する事となれりと。』

大正2年(1913年)

 1月3日の北海タイムスの記事「北海道の畜牛事業」で、札幌近郊における煉乳の生産者として『豊平町の札幌煉乳製造所の金星ミルク及び当札幌区内河井茂樹氏の孔雀ミルクである』と報道されています。

大正3年(1914年)

  1月15日発行の「帝国瓦斯協会雑誌・第三巻第一号」に、森四郎が寄稿した記事が掲載されています。これを始めとして、大正3年から大正6年までの間に、次のような9つの記事が掲載されています。

瓦斯及水道本管の溶接方法(一)~(二)
製造工業の瓦斯利用に就いて(一)~(四)
英国における染料問題
欧州戦線に因り喚起せられたる兵器製造と燃料問題(一)~(二)

 最後の記事「欧州戦線に因り喚起せられたる兵器製造と燃料問題(一)~(二)」(大正5年12月15日および大正6年1月15日)の筆者の肩書が「商学士」となっています。
 この後の大正8年に、森四郎は東京瓦斯電気工業の営業部長で、上記の記事が掲載されたのは「帝国瓦斯協会雑誌」ですので、大正3年には既に「東京瓦斯電気工業株式会社」の社員であったことが想像されます。なお、会社は当時、東京の業平橋の近くにありました。

 北海道大学の北方関係資料に、この年(大正3年)に撮影された北3条西16丁目の河井邸の写真が残されています。

河井邸前
北3条西16丁目 河井邸前、大正3年
(「北海道古写真」、北海道大学付属図書館蔵)

 写真の下に流れる川は森邸にあったキムクシメムから流れ出した川かどうかはわかりません。写真に写っている川と河井邸の建物の位置関係、奥に見える山並みの方角から推察すると、隣の北3条西15丁目(逸見邸)から流れ出した川ではないでしょうか?
 田秀三氏による「古地図スケッチ」を見ると、森邸および逸見邸から流れ出した川の名前は「コトニ?」となっており、アイヌの人たちが何と呼んでいたのか、よくわかりません。また、私が小さいころは川の跡が残っていたそうですが、この川の名前を聞いたことはありません。

 また、河井邸の建物の周りを詳しく見ますと、こんもりとしたものが多数見られます。
 これは、牛舎の牛床ではないでしょうか?河井茂樹は牛を飼っていましたし、この写真が撮影された大正3年当時、ここは練乳を製造する「札幌酪農園練乳所」でした。

 明治42年の「最新札幌市地図」には、北3条西16丁目に住居等の建物はありませんでしたが、大正5年発行の「札幌市街図」を見ると、北3条西16丁目の河井茂樹邸には建物が記載されています。

河井邸前
河井茂樹邸の建物
(札幌市街図、大正5年)

森廣
森廣(大正3年頃)「札幌之人」

大正4年(1915年)

 森廣が胃がんのため、2月4日に病床の人となり、12日に札幌病院に入院しました。(ポプラ物語)

 2月18日、森廣が札幌病院で亡くなりました。

 『札幌寿仙園主器械輸入業にて札幌工作機械株式会社長たる札幌区北1条西15丁目居住森広氏(40)は、胃癌に罹(かか)り、区立病院加療中のところ、衰弱のため薬石効なく、18日午後9時ついに逝去せり。

 氏は、明治9年10月札幌区の元老故森源三翁の長子に生まれ、明治34年7月札幌農学校を卒へ、同年8月農商務省実業練習生として農業経済研究のため北米に派遣され、卅(ソウ=30)年米国にて北太平洋貿易会社を創立し、副社長となり、滞米、九星霜(セイソウ、歳月=9年)を経て帰朝45年3月札幌工作株式会社を再興、ついで同社長に就任し、昨年末より登別軌道株式会社を組織、業半ばにして殂(ソ=死)す。

 享年40歳、有無の材、惜しむべし因(イン=故)に、同氏葬儀は明後22日午後2時札幌独立教会にて執行の由。』(北海タイムス「森広氏 逝く」、大正4年2月20日)

 「ポプラ物語」によると、『森廣が重態との知らせで、家族が病院に駆けつけ、部屋につめていたところ、その様子から自分の死期を悟ったのであろうか、何か言いたそうだったので、夫人や家族が顔を寄せると、微かに險を開いて、穏やかな眼差しで「グッドバイ」とひとこと言って、天国へ旅立った』そうです。

 2月22日に行われた札幌独立基督教会での永別式では、札幌農学校同期生代表として蠣崎知二郎が「故森広君小伝」を読み上げました。(有島武郎の世界)

 森廣は札幌の円山墓地に、父・源三、母・マキ(巻子)と一緒に眠っています。(ポプラ物語)

円山墓地にある森家のお墓

 この後、森家は上京することになりました。(ポプラ物語)

 森廣の死去により当主となった森四郎は、東京で仕事をしていますので、一家揃って東京に引っ越すことになったものと思われます。

 「北海道練乳製造史」(昭和16年)には、『河井氏が脊髄カリエスに罹(かかる)に及び、大正4年2月頃練乳製造を廃止し、使用のゼット式コンデンサーは、これを渡島当別にあるトラピスト修道院に譲り、河井氏は静岡県清水に去って、全く酪農界と絶縁するに至った。』と書かれていますが、練乳の製造を止めたのも、ゼット式コンデンサーをトラピスト修道院に譲ったのも、また、静岡県清水に去ったのも、もう少し後になってからのようです。

 6月12日、河井茂樹は「菱形内エス、ケー印札幌酪農園」と「エッチエム印札幌壽仙園」の二つの商号を登記しました。(官報 1915年6月17日)

 8月、森邸の東隣、北1条西14丁目で醤油を製造していた笠原文平に、森邸の土地・建物が売却されました。「三井の集会所」には、『登記簿謄本によれば、大正4年2月における所有権者名義は森四郎、同じく大正4年8月笠原文平』と記されています。

 森源三と関係が深かった笠原格一はすでに死去しており、森邸を購入した「笠原文平」はその長男です。

 12月、笠原文平が所有者となっている森邸であった土地・建物が、三井の団琢磨に売却されました。(「三井の集会所」)

 12月31日の北海タイムスの記事「三井倶楽部計画」には、『札幌区の舊(=旧)家、故森源三氏の宅地二町四方及び諸建物は、今回、団琢磨氏が金六万円にて買い受け、去る二十四日登記を了したるが、右買受け名義主は団氏なるも、その内実は三井一族の倶楽部を新設する目的にて、近く之が実現を見るべしとなり』と記されています。

 その後三井では、役員クラブ、迎賓館として使用しました。(「知事公館の由来」、北海道総合政策部知事室ホームページ)

 これ以降、森廣が増築した建物は「三井別邸」と呼ばれるようになりました。

 この年、河合茂樹は、札幌農学校農藝科を卒業し、東京園藝株式会社に勤めていた「上田源松」という人を札幌壽仙園の支配人として招きました。(「北海道人名辞書」、大正12年)
 同書には、『大正四年、河井茂樹の招きに応じ札幌壽仙園の支配人と為り、八年、河井の静岡に轉ずるに及び、同園の事業を継承し、自ら種苗農具肥料販売事業を経営し、今日に至る。本園は、本道に於て最も美しき歴史を有する種子苗木の生産販売店たり。北三条西十六丁目一番地に住す。』と書かれています。

 大正4年の「日本全国諸会社役員録」によると、合資会社 札幌木挽所は既になくなっており、森廣の死去に伴い、営業を止めたものと思われます。

その後の森邸と家族たち

大正5年(1916年)

 12月20日、合資会社札幌木挽所は、清算が終わりました。(北海タイムス「商業登記広告」、大正5年12月28日)

 札幌酪農園練乳場の大正5年度における練乳販売量は82,976(単位は不明)、販売額は18,154円となっています。(札幌商工会議所年報、大正5年度)

大正6年(1917年)

 11月18日付の北海タイムスの記事「笠原区議辞任」に、『久しく病床にありし札幌区選出議員笠原文平氏は、此回、区会議員を辞任せり・・・』と報道されていますので、二代目の笠原文平は病気の療養に入ったのでしょう。

大正7年(1918年)

 5月5日の北海タイムスに掲載された札幌区裁判所の商業登記公告で、北海道造林合資会社の4月1日付の変更として、『社員笠原文平ノ持分ヲ相続ニ依リ札幌区北壱条西十四丁目一番地笠原恒蔵ニ於テ承継入社ス』とあります。前年の11月18日の報道以降、笠原文平は病気療養をしていたのでしょうが、この年の4月1日以前に亡くなったようです。

 大正7年の「日本全国諸会社役員録」によりますと、合名会社 笠原商会の代表社員は、笠原文平から笠原収蔵にかわり、大正8年には笠原商会から笠原商店となっています。また、大正6年まで北海道造林合資会社の監査役だった笠原文平の名前が、大正7年以降はなくなっています。

 「大日本牛乳史」(昭和9年)によりますと、『河井氏は不幸病気に罹り、専ら製造に従事することができなくなり、明治四十四年二月製造開始以来八ヶ年にして、大正七年五月、遂に練乳事業を廃止し、使用のゼット式コンデンサーは之をトラピスト修道院に譲り、爾来氏は静岡県清水市に於いて静養し、その後治癒し、機械商を営み、市会議員に当選して、酪農界と絶縁するにいたった。』とのことです。

 大正9年、北海道庁が刊行した「開道五十年記念北海道博覧会事務報告」によりますと、大正7年8月1日から開催された開道五十年記念北海道博覧会の会場内花壇のほか庭園の造成については、『北海道帝国大学の星野勇三教授、前川徳次郎助教授に設計を委嘱し、高橋技手監督のもとに、札幌壽仙園主・河井茂樹氏その任に当り、大正7年4月以来、各秤草花の培養に従事し、7月30日をもって之を完成せり』と書かれています。

 8月15日、開道五十年記念式にあたり、森源三の功績を追彰し、北海道庁長官俵孫一から森四郎に銀杯が贈られました。この時の森四郎の住所は、「東京市麹町区隼町11番地」となっています。(「北海道拓殖功労者旌彰録」(北海道庁)、大正8年)

東京市麹町區全圖
大正7年当時の森四郎の住居(東京市麹町区隼町11番地)
(東京市麹町區全圖、明治40年1月)

森四郎邸跡
森四郎邸跡=現在の最高裁判所

 大正7年に発行された「全国種苗業者人名録」によれば、『北1条西16 寿仙園 河村茂樹』とあります。

全国種苗業者人名録
河井茂樹の壽仙園
(全国種苗業者人名録、大正7年)

 北1条西16丁目はすでに三井に売却されているため、「北3条西16丁目」の間違いでしょう。また、「河村茂樹」も河井茂樹の間違いです。ついでに、削除されなかったのか、「北 条西15丁目 森廣」が残ったままです。

大正8年(1919年)

 モーター誌(大正8年1月号)の「東京瓦斯電気工業株式会社」と題する記事に、自動車営業部員として、『社長 松方二郎、部長 森四郎』の名前があり、『特に部長森四郎氏の慧敏(けいびん=利口で反応がすばやいこと)にして達識(たっしき=物事を広く深く見通す見識)たる稀に見る人格者にして、その斯業(しぎょう=この事業)に関する該博(がいはく=物事に広く通じていること)なる知識と、豊富なる経験と透徹せる識見と、侵すべからざる魅力とは同部を統率するに、げにや(=本当に)適任なる人物と云わねばならぬ』とあります。

モーター誌
「東京瓦斯電気工業」の記事
(モーター誌、大正8年1月号)

 当時の森四郎は34歳です。なお、東京瓦斯電気工業株式会社は明治43年(1910年)に「東京瓦斯会社(後の東京ガス)」から独立し、ガス機器の製造から始まり、鉄道車両、自動車、航空機などの各種機械を製造する会社でした。
 なお、上記の記事の中で、社長の名前が「松方二郎」となっていますが、この頃の社長は「松方五郎」です。

 この年、河合茂樹は静岡県清水町へ転居しました。(「北海道人名辞書」、大正12年)

 これは私の想像ですが、河合茂樹は脊髄カリエスに罹り、当時著名人(井上馨、西園寺公望など)の別荘があった清水町へ療養のため転居したのではないでしょうか?

大正9年(1920年)

 3月29日、森路九郎が陸軍砲兵少尉に任じられました。(官報 大正9年3月30日)
 6月21日、森路九郎が正八位に叙せられました。(官報 大正9年6月23日)

大正10年(1921年)

 この年、森四郎は東京瓦斯電気株式会社の理事で、雑誌『モーター』に4度にわたって自動車税制の改革案「自動車税制改革私案」を寄稿しています。(「自動車フランチャイズ・システムへの先駆的・代表的参加者」、芦田尚道)

大正11年(1922年)

 森四郎は、慶應義塾大学経済学部予科に入学しました。(「三田評論」、昭和14年8月特別号第4付録)
 森四郎は、東京瓦斯電気工業に勤めながら、大学に通ったのでしょうか?もしかすると、東京瓦斯電気工業を既に退社していたのかもしれません。

 大正11年5月発行の「札幌市制紀念人名案内図」に、河合茂樹が後を継いだ「札幌寿仙園」が河井茂樹の住居があった北3条西16丁目に残っています。

札幌市制紀念人名案内図
札幌寿仙園の移転先(河井茂樹邸跡)

札幌市制紀念人名案内図(住所一覧)
地図裏面(住所一覧)
(札幌市制紀念人名案内図、大正11年5月)

 大正8年11月2日と大正11年2月16日の北海タイムスには、寿仙園の広告を掲載しています。なお、大正11年2月16日の広告では、札幌寿仙園と当時北7条西4丁目にあった種物商「札幌農園」との連名になっていますので、札幌壽仙園の業務を札幌農園に委託していたのではないでしょうか?大正8年に河井茂樹が静岡に転居した後、札幌壽仙園の事業を継承し、種苗農具肥料販売事業を経営していた上田源松も同園を去ったのでしょうか?

 大正11年12月13日の北海タイムスの記事「北海種苗創立」によると この年の12月10日、「北海種種苗農具株式会社」が設立され、河井茂樹は相談役に就任しています。
 『兼て計画中の札幌農園と札幌壽仙園との合同に成る資本金二十五万円の北海道種苗農具株式会社は、去る十日旗亭春駒に於て創立総会を開きたるが、出席株主の委任状共百五名、座長に松田学氏を推し、各般の事項を協議し、成立を告(つげる)に至りたるが、取締役には石黒長平、藪秀二(藪惣七の子息)、奥山啓、山田源松、石黒助太郎、内藤芳雄、吉田春三、監査役には中野四郎(河井茂樹の妻の兄)、港舟哉氏当選、同河井茂樹氏相談役に選挙されたりと』

 同じ12月、日仏シトロエン自動車株式会社が設立され、森四郎が専務取締役になっています。なお、社長は叔父の根岸錬次郎です。

帝国銀行会社要録
日仏シトロエン自動車株式会社
(帝国銀行会社要録、大正13年)

大正12年(1923年)

 3月25日、森四郎は橋本貞藤という人と共著で「辻待自動車(タクシーキャブ)」という本を出版しています。
 内容を極端に要約しますと、パリ・ロンドンのタクシー事業が進んでいることから始まり、欧米各国のタクシー事業の詳細が紹介されています。やっと東京でもフォード自動車を使用したタクシー事業が始まったばかりのようですが、森四郎は日仏シトロエン自動車株式会社の専務取締役ということもあってか、フォード自動車はタクシーには適さないと主張しています。最後に、タクシー事業がさらに続出し、日本の補助交通機関として自動車交通の民衆化がなされることを希望すると書かれています。

 「子孫が語る河井継之助」によりますと、関東大震災(大正12年9月1日)の直後の話として、『特に東京自動車では英国製ロールス・ロイスという一台一台を手製で数か月かけて造る世界一の高級車を扱っていた。森源三の息子四郎がこの会社の社長をしていた関係で、商品の一台を借りて(根岸)錬次郎が運転し、震災後多くの市民が野宿をしている皇居前の広場に親戚家族を助けに行った』とあります。

 しかし、当時、森四郎は『東京自動車(東京自動車工業は昭和12年4月の創立)の社長』ではなく、日仏シトロエン自動車株式会社の専務取締役でした。

 11月、河井茂樹が清水市入江受新田に、諸機械、電気業務一般を取り扱う「大一屋商店」を開店したとのことです。(大日本商工録、昭和3年版および電気年鑑、昭和3年)

大正13年(1924年)

 5月2日、清水市議選挙が行われ、河合茂樹が市会議員に当選しました。(清水市史2巻)

大正14年(1925年)

 11月16日~19日の東京朝日新聞の記事「自動車(上・中・下)」に、『シトロエンは多年仏国に居った森四郎君が、日仏シトロエン会社を仏国の本社と合弁でやっている』と紹介されています。

森四郎
森四郎
(中外商業新報、大正14年5月20日)

大正15年(1926年)

 4月7日、かつて河井茂樹邸があった北3条西16丁目の土地が宅地分譲で売り出されました。ここは札幌壽仙園があったところでもあります。
 売主は、大正11年に札幌壽仙園の業務を引き継いだ北海道種苗農具株式会社と同社の役員でもあった北2条西14丁目に在住の富樫彌惣治という人です。

宅地分譲広告
宅地分譲広告
(北海タイムス、大正15年4月7日)

 河井茂樹が清水に去った後、札幌壽仙園の種苗園でしたが、北海道種苗農具株式会社が設立された時に、同社と富樫彌惣治に土地を売却したのではないでしょうか?

 大正15年発行の「日本全国諸会社役員録」によれば、森四郎の住所は「麹町、永田町一丁目」、また「東京電話番号簿」によれば、「麹町、永田町一丁目31番地」、電話番号は「銀座57-0491」です。
 それまでの住所、麹町隼町11番地とはすぐ近くです。

日本全国諸会社役員録
日仏シトロエン自動車株式会社
(日本全国諸会社役員録、大正15年)

東京電話番号簿
東京電話番号簿(大正15年5月1日現在)

東京市麹町區全圖
森四郎の住居があった永田町1丁目31番地
(東京市麹町區全圖、明治40年1月)

国立国会図書館
森四郎の住居があった現在の永田町1丁目、国立国会図書館

 森四郎が住んでいた永田町1丁目31番地には、明治時代、元肥前大村藩士で、明治政府の外務大丞、新潟県令、東京府知事、衆議院議員、衆議院議長などを歴任した男爵・楠本正隆という人が住んでいました。明治15年の地図を見ると庭には大きな池があり、現在大村市にある旧楠本正隆邸と同じように武家屋敷風の大きな家だったと思われます。

五千分一東京図測量原図
明治15年の楠本邸
五千分一東京図測量原図(東京府武蔵国麹町皇城及永田町近傍)

 しかし、大日本帝国陸地測量部の大正5年の地形図には、既に大きな家屋は見当たりません。これを遡る大正元年の東京市及接続郡部地籍地図では、永田町1丁目31番地は分筆され、31-1番地と31-2番地になっています。さらに、前掲しました大正15年の東京電話番号簿では、永田町1丁目31番地の住人は森四郎を含め3名となっていますので、更に分筆されていたのかもしれません。
 一方、以前、住んでいた隼町11番地は、渡邉という人の所有地となっていますが、山口県出身の内務官僚で、後に島根県、奈良県、栃木県知事を歴任した別府総太郎という人が住んでいました。

昭和3年(1928年)

 3月、森四郎は、大正11年に入学した慶應義塾大学経済学部を卒業しました。(「三田評論」、昭和14年8月特別号第4付録)

 5月2日、清水市議選挙が行われ、河合茂樹が2回目の当選を果たしました。(清水市史3巻)

 昭和3年発行の「人事興信録(第8版)」に、森四郎の消息が載っています。
 職業の日佛シトロエン自動車(株)取締役、住所の東京市麹町区永田町1ノ31はそのままです。この時点で家族は、母マキと妻の幾枝(伊沢信平の長女)、弟の路九郎、同妻のタケ(石森清兵衛の妹)とその三人の子供たちとなっています。
 なお、妹の秋子は新潟県人の槙忠一郎の長男忠利と結婚し、弟の五郎は分家したと書かれています。

 さらに、同人事興信録には、南1条西2丁目にある「中野時計店」の主人で、高額納税者の中野四郎の項で、妹の「ジン(明治22年7月生)は北海道士族河井茂樹に稼り」と書かれています。
 なお、只見河井継之助記念館によれば、河井茂樹の妻は河井継之助の姪とのことですが、妻の父の『中野四郎は、安政五年、越後国三島郡脇野町の飾屋に生まれる』と書かれています。(「北海道人名辞典」、大正3年10月)

 かつて河井茂樹氏の所有地で、大正15年に宅地分譲された北3条西16丁目の南西角に富樫邸が建てられました。

北3条西16丁目に建てられた富樫邸
左上の建物・T邸 S3(1928)
(札幌市個人邸・ホームページ)

 なお、この富樫邸の建主は、札幌有数の海産商・富樫商店の当主(二代目)富樫長吉であって、土地を売却した富樫彌惣治ではありません。また、この富樫邸も平成15年に売却され、その跡に30階建ての高層マンションが建てられました。

昭和4年(1929年)

 3月8日、河井茂樹が相談役を務める北海道種苗農具株式会社の株主総会で、会社を解散することに決議されました。新聞記事の最後に、『長い間、問題を起こしていた北海種苗農具株式会社も愈々(いよいよ)近く解散される事になるであらう』と書かれています。(北海タイムス「北海種苗農具 会社は解散か」、昭和4年3月10日)

 8月13日、河合茂樹の妻ジンの兄、中野四郎が経営する中野四郎商店の出資金の一部を河井茂樹に譲渡しました。(官報 1929年10月30日)
 官報に記載された河井茂樹の住所は、清水市入江受新田百四十九番地となっています。

 12月17日、河合茂樹が清水市入江受新田二十二番地ノ一に、機械類を販売する「株式会社 大一屋商店」を設立しました。(官報 1930年2月20日)

 これは、大正12年11月に始めたお店を株式会社にしたものでしょう。

 昭和4年の「大日本職業別明細図」によれば、北1条西14丁目は笠原商会となっていますが、昭和6年の「大日本職業別明細図」では「斎藤本店」となっています。また、「帝国銀行会社要録」によれば、笠原商店は昭和4年までありましたが、昭和5年にはなくなっています。昭和4~5年ころに笠原商店の味噌・醤油工場は「斎藤甚之助」に譲渡され、昭和47年まで味噌、醤油の醸造が続けられました。

大日本職業別明細図
斎藤甚之助の味噌工場
※右方向が北
(大日本職業別明細図、昭和6年)

 昭和4年発行の「帝国銀行会社要録」には、「日仏シトロエン自動車株式会社」はなくなり、取締役の一人であった須田国雄を代表取締役として「日本シトロエン自動車販売株式会社」が設立され、業務を引き継いだようです。それまで、代表取締役であった根岸錬次郎、取締役であった森四郎、渡辺六郎の名前は見られません。

帝国銀行会社要録
日本シトロエン販売株式会社
「帝国銀行会社要録」(昭和4年)

 大正15年の日本全国諸会社役員録に取締役として名前が見られる渡辺六郎は、東京渡辺銀行の渡辺一族の一人で、日仏シトロエン自動車株式会社は渡辺財閥のメンバーでもありました。
 昭和2年3月、昭和の金融恐慌の導火線となったことで日本経済史上有名な東京渡辺銀行が破綻し、専務の渡辺六郎氏は責任をとってこの世を去りました。(「金融恐慌と機関銀行破綻」、滋賀大学経済学部研究年報Vol.3、1996)

 日仏シトロエン自動車株式会社が生産されたのは、このことが大きく影響しているのかも知れません。あるいは、昭和4年に、浜口内閣が緊縮政策をとり、経済界は委縮し、不況が深刻さを増している中、アメリカの株暴落を端とした世界恐慌が起き、産業界は大きな打撃を受け、株価は暴落、企業の倒産が全国に広がりましたが、このことが大きく影響したのかも知れません。

 この年、森四郎は「浅野造船所」に入社しました。(「ダイアモンド会社職員録」、昭和33年)
 浅野造船所は、横浜市の鶴見にあった浅野財閥系の造船所でした。昭和11年には社名を「鶴見製鉄造船株式会社」と改め、昭和15年には同じ財閥系の「日本鋼管」と合併しています。

 恐らく、「浅野造船所」への就職は、日仏シトロエン自動車株式会社の社長で叔父の根岸錬次郎による推薦か、依頼によるものと思われます。
 なお、根岸錬次郎はこの当時、大正7年に設立した東京動産火災保険株式会社(現東京海上日動火災保険株式会社)の社長であり、この後の昭和9年、齢79歳となったのを機に東京動産火災保険株式会社の社長を退任しています。(子孫が語る河井継之助)

 昭和2年10月1日現在の「東京電話番号簿」では、森四郎の電話番号や住所に変わりありませんが、昭和4年10月1日現在の「東京電話番号簿」には、森四郎の電話番号はすでになくなっており、この間に麹町区(現千代田区)永田町から転出したようです。

昭和5年(1930年)

 11月12日と25日の京城日報に、森四郎の消息が次のように載っています。
 『森四郎氏(日本フォード社代表)11日夜入城同上』(11月12日)  『森四郎氏(日本フォード代表社員)24日夜同上』(11月25日)

 記事の最後の「同上」ですが、前の記事には「備前屋」と書かれていますので、「日本フォード社代表の森四郎氏は、11日夜、京城市(現ソウル市)に入城し、旅館・備前屋に宿泊」ということでしょう。

 森四郎は、この時既に浅野造船所の社員でしたので、記事にある「日本フォード自動車株式会社」には出向していたものと思われます。

 なお、日本フォード自動車株式会社は大正14年2月に設立され、会社は横浜市中区緑町(現桜木町)、自動車の組立工場は同市神奈川区守屋町にありました。

 日米間の関係が悪化しつつあった昭和11年に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定しました。この法律により、国内資本が50 %以上の企業のみ自動車製造が許可されることになり、100 %アメリカ資本の日本フォード自動車は、昭和15年に操業停止を余儀なくされ、会社と工場は無くなってしまいました。

三井別邸(昭和5年)
(札幌市公文書館)

昭和6年(1931年)

 昭和6年発行の「長岡市史」に、『河井茂樹は、目下静岡県清水港に住む』と記載されています。

昭和7年(1932年)

 5月2日、清水市議選挙が行われました。河合茂樹が出馬したか否かはわかりませんが、市会議員の当選者名簿に河井茂樹の名前はありませんでした。(清水市史3巻)

昭和8年(1933年)

 10月24日、静岡紅茶株式会社が設立され、森路九郎が取締役になりました。(官報 昭和8年11月28日)
 この時の森路九郎の住所は、東京市大森区入新井四丁目八二七番地です。
 「山梨・静岡県総覧、昭和12年」によりますと、専務取締役の秋野庄太郎という人は陸軍砲兵隊の同僚です。

昭和11年(1936年)

 昭和11年12月、「三井別邸」(=かつての森源三邸)の隣に新館を新しく建設して「三井別邸新館」と称しました。(「知事公館の由来」、北海道総合政策部知事室ホームページ)

知事公館
三井別邸新館(現在の知事公館)

 『濃緑の樹立の中に、目も鮮かな白亜の洋館が竣工した。この洋館こそ参謀総長宮として金枝玉葉の御身を御厭いなく、御渡道遊ばされる閑院宮殿下が札幌御滞在中の御宿舎となるべき三井別邸の新館である。

 三井家では従来の別邸と並んで数カ月前から、この光栄の新館建設工事を進めていたが、最早写真に見る様な豪壮な洋館が出来上がり、今は内部の整頓と大勢の人夫を入れて庭内の手入れするばかりとなっている。』(北海道新聞「三井別邸に白亜の新館」、昭和11年9月8日)

 この時、森廣が建てた三井別邸はとり壊されず、敷地内に移築されました。

昭和12年(1937年)

 1月22日、森路九郎が静岡紅茶株式会社の取締役を解任されました。(官報 昭和12年4月2日)

昭和14年(1939年)

 「三田評論」(昭和14年8月特別号第4付録)に、森四郎が「鶴見製鉄造船会社」に勤めていることが書かれています。なお、勤務地は「東京市麹町区丸ノ内1ノ6海上ビル新館」となっています。

昭和28年(1953年)

 この年の春、三井倶楽部は北海道知事の公館となりました。
 北海道総合政策部知事室ホームページにある「知事公館の由来」によりますと、この年、森廣が建てた「三井別邸」は取り壊されましたそうです。

 しかし、ブログ「1950年に生まれて」には、三井倶楽部の旧館が昭和30年代の前半まで残っていたと建物の絵とともに書かれています。また、建物の絵は、写真で見た森廣邸とそっくりです。ただし、1948年に撮影された米軍の航空写真を見ても、三井倶楽部別邸らしき建物は見つけることはできません。もし、別邸が昭和30年の前半まで残っていたとすれば、建物全体ではなくて、その一部が残っていたのではないでしょうか?

知事公館
旧三井倶楽部の建物
(ブログ「1950年に生まれて」)

昭和33年(1958年)

 「ダイヤモンド会社概要」(昭和33年度版)に、日本鋼管(株)の取締役として森四郎の名前を見ることができます。
 また、同じ年の「ダイヤモンド会社職員録」によりますと、森四郎の役職は、取締役・造船監理部長となっています。さらに、住居は東京都大田区雪谷、趣味は囲碁と書かれています。
 なお、「日本鋼管六十年史」(昭和37年6月)には、元取締役・元監査役と書かれていますので、昭和37年以前に日本鋼管(株)を退職したものと思われます。

昭和37年(1962年)

 11月17日、旧制札幌中学校(現在の札幌市立南高等学校)の第13期同窓会が日比谷松本楼で開催され、森路九郎が参加しています。(「在京札中同窓会会報第3号」)

旧制札幌中学校、第13期同窓会
旧制札幌中学校、第13期同窓会
(在京札中同窓会会報第3号)

昭和40年(1965年)

 桑園振興会の人々がお金を出し合って、新しい「桑園碑」が知事公館の敷地内に建てられました。(「桑園碑について」、桑園地区連合町内会ホームページ)

桑園碑
桑園碑

昭和50年(1975年)

 在京札中同窓会の会報(第25号)に、『13期 森路九郎 老令夜の外出は出来るだけ控えております。』と、総会欠席者の短信が残されています。
 森路九郎は明治24年8月21日生まれですから、この時の年齢は84歳です。

平成18年(2006年)

 長岡市にできた河井継之助記念館の開館式で、河井継之助のひ孫にあたる東京都目黒区、会社員河井弘安氏(44)が、『河井は「長岡をよくしようと知恵を絞った。記念館が長岡の将来を考えるきっかけになればうれしい」』と話されたとのことです。(読売新聞、平成18年12月28日)

平成24年(2012年)

 10月17日に開催された河井継之助没後百四十五年祭法要で、『河井継之助末裔の7代目正安夫人・恵美さん、8代目弘安さんと長男の康敬さんらの家族三代や、根岸千代子さん(継之助の姉の末裔)ら河井家の子孫を囲み・・・』とあります。(「河井継之助記念館会報“峠”12号」、2012年11月)

平成27年(2015年)

 8月31日、河井継之助末裔の7代目の河井正安氏(株式会社共和電業 元社長)が死去されました。(日本経済新聞、平成27年9月1日)

 河井正安氏が亡くなられた年齢は92歳ですので、逆算すると大正12(1293)年頃の生まれになります。ちょうど関東大震災が発生した後で、河井茂樹が札幌を離れて静岡県清水に住みはじめてから数年後の頃でしょうか?

河井継之助の末裔・故河井正安氏の自宅

現在の知事公館と河井邸跡

現在の知事公館
現在の知事公館(2016年7月)

河井邸跡の現在
現在の河井邸跡(2016年7月)

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