十九丁目市場、今も往時のよう

 私が子供のころ、家から最も近かったのは西17丁目にある商店街でしたので、19丁目市場には頻繁に通うことはありませんでしたが、毛ガニなどの新鮮な魚屋さんがあって、母と一緒に買い物に行ったことを覚えています。


 残念ながら、19丁目市場は無くなってしまいましたが、札幌では有名な「助川貞二郎」という人と関係があるようです。
 19丁目市場横の札幌では珍しい「斜め通り」などもあわせて、少し昔のことを調べてみたいと思います。

十九丁目市場の誕生

 さっぽろ文庫7「札幌事始め」によりますと、十九丁目市場は大正13年(1924年)8月に助川貞二郎が経営する公益市場として、南1条西19丁目に誕生しています。

 十九丁目市場を創設した助川貞二郎という人は「札幌市電の父」とも呼ばれ、札幌では有名ですので、その業績を知っている方は多いと思います。

 しかし、明治から大正時代の新聞を見ておりますと、警察に捕まったり、悪どいことをして訴えられたり、一生の間、何度も繰り返しています。これだけ頻繁に世間を騒がせていると、仕事や事業の方では役に立つ人ではなかったであろうと想像されますので、私は好きにはなれません。
 さらに、「札幌市電の父」は、むしろ、永年、札幌石材馬車鉄道合資会社の社長を務め、馬車鉄道を創設し、電車の開通に尽力した藪惣七のほうが相応しいと思います。
 もし、助川貞二郎の履歴を知りたい人は、札幌市中央区のホームページ「歴史の散歩道」に助川貞二郎のことが書かれていますので、ご覧ください。

 何故ここに助川貞二郎の市場ができたかと言うと、当然なことですが、この付近の土地は助川貞二郎が所有していました。

 後ほど紹介しますが、大正15年10月9日の北海タイムスの記事「円山へ行く二十丁目道路、市の所有か助川氏の所有か」には、南1条の西19丁目と西20丁目は助川貞二郎の所有地であったことが書かれており、昭和4年の「大日本職業別明細図」を見ると、南2条西19丁目に「助川合名会社」があります。

 また、「松の家」の左側(南側)にある曾我部邸ですが、昭和3年の「札幌市都市計画内地番入精密図」の地主の欄にその名前が見られますし、私が札幌に住んでいた時もここは曾我部邸でしたので、助川貞二郎の土地ではなかったようです。

 助川貞二郎の所有地がどこまであったのか詳しくはわかりませんが、「松の家」の一角と「助川合名会社」がある一角だけのようです。


十九丁目市場があった「松の家」と「助川合名会社」
※右方向が北
「大日本職業別明細図」(昭和4年)

十九丁目市場横の斜め通り

 地図を見ていただくとわかりますが、松の家(後の十九丁目市場)の北側は、札幌では珍しい斜めの通りです。

 大正5年の地形図によりますと、この時点で南「一条通」がこの地域の主要な道路となっており、札幌区側の西18丁目から19丁目の区間が斜めの道路となっています。
 なお、赤いのところが、後に十九丁目市場ができたあたりです。


斜め通り
(大正5年地形図)

 明治時代、この道路は銭函道と呼ばれていました。後ほど紹介する新聞記事によれば、この道路ははじめ『市道(その当時は札幌市ではないので、正確には市道ではありません)とし、その後国道に移し、再び市道になっている』と書かれており、銭函と札幌を結ぶ幹線道路でしたが、この付近は円山村(藻岩村字円山村)と札幌区の町境です。

 私は最初、「それぞれの町が造った道路を無理に繋ぎ合わせようとして、斜めの通りになってしまった」と想像しましたが、果たしてそれで正しいのでしょうか?
 何故、斜めの道路は札幌市(当時の札幌区)側だけで、円山村側は真っ直ぐな道路なのでしょうか?
 また、この道路が造られた当時の資料を読みますと、それぞれの町が勝手に造った道路とは思われず、斜めの道路になってしまった理由は何だったのでしょうか?

銭函道

 最初に、銭函道がどのようにしてできたのか調べてみました。

さっぽろ文庫 50「開拓使時代」

 島義男開拓判官が、石狩本府建設のため銭函から札幌へ向かったのは明治2年12月である。一行が歩いた道は、手稲山地の裾野をつたっていくルートで、原野密林の中とはいえ、人跡未踏というわけではなかった。安政4年(1857)2月、蝦夷在住希望の士族とこれに従う農民十戸が星置、発寒、琴似に入植していた。同年秋には松浦武四郎が石狩詰出役飯田豊之助とともに、このルートを通って札幌から千歳へ踏査しており、翌年にかけて小樽内などの場所請負人の手で銭函から札幌、千歳へいたる街道が開削されている。
  (途中略)
 その後、明治6年開通の札幌新道に対応して、銭函道も馬車道として整備されたが、もともと幾筋もの川をわたる道であり、ところによっては湿地帯を横切らねばならなかった。手宮鉄道開通まで、札幌小樽間の貨物はこのルートの馬匹運搬が主力であった。数十頭をつないでいく駄馬列は、市街地に入っても時には泥濘馬腹に達し、人は路上に板を敷き、その上を通行する状態であったという。』

四十年前の札幌(北海タイムス、明治43年1月3日)

 円山開拓の中心人物だった上田萬平氏が、銭函道のことを次のように語っています。

 『明治四年の春、私共の来た時は小樽へ船で上陸して、それから銭函まで海岸を来て、銭函から札幌へ来るにはアイヌが銭函海岸へ漁業に出るために通った道を辿って来た。道幅は僅かに一尺か二尺位で、それも今の道のように真直ぐでなくて、彼方此方(あちこち)グルグル廻った道であったが、明治四年、銭函から札幌迄で新道路開削の設計が出来て、同年十一月頃工事に着手したが、年内に銭函から三里出来て、明治五年末には全部開通した。翌六年には移住民がドシドシ殖いて来た(=増えてきた)から、之れに給する味噌や農具機械類の運搬で、銭函から札幌まで荷馬が続いた位である。この当時は馬車が無くて、皆、馬の背に荷物を負わしたものである。』

円山百年史(円山百年史編纂委員会、昭和52年6月25日)

 明治4年6月、札幌神社の社殿造営と同時に創成橋から円山村に至る”ご本府通り”二十八町、円山村から神社に至る”宮通り”(今の第一鳥居から神宮まで)八町が拓かれたとのことで、宮通りの開削には円山村住民は総出で伐開作業の奉仕に出たそうです。

 これは、開拓使が明治5年7月、札幌-銭函-小樽間を結ぶ道路の開鑿を開始する1年前のことでした。

 そこで、「札幌沿革史」(明治30年1月4日)を読みますと、『明治四年、創成橋通より円山村まで幅三間長二十八町餘の県道・・・を開鑿した』と書かれていますので、さらに詳しい「開拓事業報告 第2編(勧農・土木)」(大蔵省、明治18年)を見ますと、明治4年の5月から6月にかけて、「創成通ヨリ圓山村迄」と「圓山村ヨリ札幌神社迄」の道路の開削が行われたことが書かれています。

 円山百年史を読むと、当時、円山村には道路が1本しかなく、今の西24丁目と西25丁目の間の道路を北5条から南1条まで、そこから南東に折れる斜めの道を南9条までの道路のことで、明治3年、庚午三の村入植時、雪解け水があふれ、残雪も少なくない4月の原始林の中で、比較的馬の背の地形を選び、人馬が通れる程度に樹木を伐開しただけの刈り分け道だったそうです。

 「開拓事業報告 第2篇」に記載されている「圓山村迄」と「圓山村ヨリ」とは、この「一本道まで」と「一本道より」のことだと思われます。

 続いて、銭函道が描かれている地図から、銭函道の変遷を調べてみました。

明治元年札幌地図

 銭函道が描かれている最も古い地図は「明治元年札幌地図」ですが、当時の札幌の道路は琴似道、八垂別(現在の川沿町)道、元村(後の札幌村)道と銭函道しかありませんでした。

明治元年札幌地図
(札幌市中央図書館デジタルライブラリー) 

 地図を見た私の感想ですが、これらの道路はアイヌの人たちが歩いていた道だったのではないでしょうか?
 明治4年に札幌と円山を結ぶ道路ができる前は、この地図が示すように、曲がりくねった細い道だったものと思われます。

銭函新道見取画図

 続いて、明治何年に作成されたものかはわかりませんが、「銭函新道見取画図」です。

銭函新道見取画図
(北海道大学北方資料データーベース) 

 先に紹介した上田萬平氏の思い出にあった『明治四年、銭函から札幌迄で新道路開削の設計』で作成されたものではないかと思われます。ただし、設計図というよりは図面の名称のとおり、見取り図そのものです。

札幌郡西部図(明治6年)

 さらに、明治6年に作成された「札幌郡西部図」です。


札幌郡西部図(飯島矩道・船越長善、明治6年)

 銭函道が整備され、札幌市街と繋がっていますが、市街を少し離れると幾つもの川を越えていく大変な道路だったようです。さっぽろ文庫50「開拓使時代」の「銭函道」にあるように、『市街地に入っても時には泥濘馬腹に達し、人は路上に板を敷き、その上を通行する状態であった』ことがこの図からも容易に想像できます。

 「札幌区史」によりますと、この地図は、札幌の区域として「本府廰」より一里四方の線が描かれた地図であるとのことです。明治6年に、札幌の区域は本庁庁舎を中心として一里四方と定められました。
 この一里四方の線のすぐ近くを一本の川が流れていますが、この川が後の「西20丁目」を流れる川で、札幌と円山の界となりました。

札幌養蚕場 第一号桑園(明治15年頃)

 続いて、明治15年頃に書かれた「札幌養蚕場 第一号桑園」です。


「札幌養蚕場 第一号桑園」(明治15年)

 札幌と円山の境、西20丁目付近を拡大してみましたが、この時点で既に斜めの道路になっているように見えます。地図が正確ではないのかもしれませんが、私にはそのように見えます。
 さらに、斜め道路の付近で札幌と円山村の界になった川と交差しています。この地図は桑園を開墾した状況を示す地図で、銭函道よりも北側しか描かれておりません。したがって、この川は銭函道から流れ出しているわけではありません。明治6年の「札幌郡西部図」を見ると、南3条~4条付近から流れ出ていたようです。

圓山豊平山鼻三ヶ村之図(明治27年)

 次に、「札幌歴史地図. 明治編(さっぽろ文庫 ; 別冊)」にありました「圓山豊平山鼻三ヶ村之図」(明治27年)にも、南1条通り(銭函道)が描かれています。


「圓山豊平山鼻三ヶ村之図」(明治27年)

 南一条通(銭函道)が、圓山村の手前で斜め(のところ)になっています。

高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図(明治27~28年頃)

 次に、札幌市埋蔵文化センター所蔵の「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」にも、明治27年から28年頃の南1条通り(銭函道)が描かれています。


「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」
(明治27年から28年頃)

 20丁目付近を見ますと、赤色の楕円で囲ったように、明らかに斜めの道路になっています。先の「札幌養蚕場 第一号桑園」で、西20丁目付近で交差していた川は既に無く、北に後退しています。一方、南1条通り(銭函道)の南側には、赤い→で示したように、この川の上流側がまだ残っています。

札幌市街之図(明治32年)

 最後に、明治32年の「札幌市街之図」ですが、斜めの通りであることがはっきりとわかる地図です。


札幌市街之図(自治堂、明治32年)

 字が小さくて読みづらいかもしれませんが、南一条通の北側の赤い線で囲った枠の内側に「避病院」(後の円山病院)があります。先ほど紹介した上田萬平氏の北海タイムスの記事「四十年前の札幌」の中で、『今では何処へ行ったとなく影もなくなったが、私共の来た当時は熊や狼は沢山ゴロツイて居りまして、殊に鹿と狐は常日(いつも)二、三百位の大行列で歩いたものであります。今の札幌区の隔離病舎の在る所(=円山病院)が狐の巣窟であったが、土地が乾燥して彼等の為に穴を穿つに便利であったからである』と語っていますが、明治の初め頃、避病院のあった土地は乾燥していましたが、その周辺は湿地だったようで、赤い線で囲った枠で示した避病院(円山病院)の敷地境界も斜めの線になっています。

斜めの道路になった理由

 何故、南一条通(銭函道)がここで斜めの道路になったのか、その理由を探ってみました。

明治半ば頃の川の流れ

 先ず初めに、川の流れが描かれた明治の半ば頃の地図から、斜め通り周辺の川の流れを大正5年の地形図上に重ね合わせてみました。


明治中頃の斜め通り周辺の河川

 緑色の線は、先に紹介した「札幌養蚕場 第一号桑園」(明治15年)に描かれていた川を示しています。青色の線は、「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」(明治27年から28年頃)に描かれている川を示しています。また、濃い青色の線は、大正5年当時に流れていた円山村内の川です。大正5年の地形図を選んだ理由は、この地図が古地図の中で最も正確であろうと思ったからです。

 また、紫色の点線は大正五年の地形図に描かれていた等高線の谷間を辿ったもので、昭和2年頃、北大農学部高倉新一教授が現地調査を行いましたが、豊平川上流から山鼻へ抜けて南1条西18丁目にあった鉱物署裏へ出る川の跡だったそうです。

 「開拓使事業報告 第2編 (勧農・土木)」の橋梁の項を見ますと、明治8年12月から明治9年5月にかけて、円山村境に板の橋が架けられたことが報告されており、その川は円山村界に流れていた川でしょう。この道ができた明治4年から明治9年までこの川の橋は無かったのでしょうか?

旧河道

 次に、国土地理院の「治水地形分類図」(更新版、2007年以降)から、旧河道を調べてみました。


「治水地形分類図」(更新版2007年以降)
国土地理院

 いつ頃まで流れていた川なのかはわかりませんが、かつて旧西20丁目通りの東西両側には川が流れており、それが西20丁目付近で合流し、長生園があるあたりを通って北に流れていたようです。

斜め通り周辺の標高

 さらに、国土地理院の「治水地形分類図」(初版1976~1978年)の等高線を参考に、斜め通り周辺の地盤が比較的高いところと低いところを調べてみました。


「治水地形分類図」(初版1976~1978年)
国土地理院

 赤く囲ったところが比較的地盤が高いところ、青く囲ったところが比較的地盤が低いところです。

 比較的高いところは、長生園(昔の円山病院)、堯祐寺、札幌医大(昔の師範学校)、南1条~南3条西20丁目(昔の西20丁目通り)の4か所ですが、円山病院、堯祐寺および師範学校はこの付近の初めにできた施設で、その理由は地盤が高く、乾いていたからでしょう。

  また、南1条~南2条西20丁目は、戦後まで西20丁目通りがクランクしていたところで、明治9年に札幌牧羊場ができた時、ここが牧羊場の西側の敷地境界でした。何故、西20丁目通りがここでクランクしているのか、昔から疑問に思っていましたが、それはここが周辺より高く、乾燥していて敷地境界として適当だったからでしょう。

  一方、これら4か所に囲まれた西18丁目付近は、周辺よりも低く、湿地だったようです。「札幌市内の泉地」(「札幌市史第2」)には、北1条西18丁目付近に「キムウンクシュメム」があったのではないかと書かれています。

南一条通りの標高

 続いて、「治水地形分類図」(更新版2007年以降、国土地理院)から、南1条通りを西17丁目から西22丁目まで、交差点の標高を計測して、グラフにしてみました。


南1条通りの標高

 グラフを見て分かりますように、西18丁目交差点辺りが最も低く、札幌と円山村の境界となった西20丁目付近が、当時川が流れていたにも関わらず、標高が最も高いところでした。それは、「治水地形分類図」(初版1976~1978年)の等高線を見ても、凡そわかります。

西20丁目付近の昔の写真

 現在、この付近はほぼ平坦ですが、わずかな高低差があります。北海タイムスの記者だった方が、大正10年頃のこの付近の状況を、「高低のかなりに甚だしい荒地」と言っていますので、写真でも残っていないか調べてみましたところ、「円山百年史」に大正4年頃の西20丁目付近の写真があったのを思い出しました。


円山開村記念碑(左)と上田一徳翁之碑(右)
南大通西20丁目
(「円山百年史」、円山百年史編纂委員会)

 左側の「円山開村記念碑」ですが、明治23年に円山入植20年を記念して、当時の円山小学校の前庭に建てられました。その後、大正4年に大通西20丁目に移設され、昭和3年8月に現在の「円山会館」入口(北1条西23丁目)に再び移されました。円山開村記念碑の右隣に建っている「上田一徳翁之碑」は、明治43年5月にここに建てられ、その後、伏見稲荷神社に移設されています。

 写真に写っている二つの碑が建っていたところは、札幌医師会館の西20丁目通りを隔てた西側、南大通西20丁目です。
 写真を見てお分かりのように、碑が建っているところは、写真を写した場所よりも2~3m程高い、小高い丘のようです。丘の上には、碑と樹木が見られますが、その後ろの少し離れたところにも樹木のようなものが見えますので、この小高いところは多少奥行きがあるのではないでしょうか。

 写真を撮影した場所は、西20丁目通りの道路からでしょうが、かつてはこのように「高低のかなりに甚だしい」ところもあったということでしょう。今でも知事公館の中に入ると、川の流れた跡で「高低のかなりに甚だしい」状態を見ることができます。

斜め通りとなった理由

 これまでに分かってきたことと、斜め通りになった推定も併せて、大正五年の地形図上にまとめてみました。


斜め通りとなった理由(私の推定)

 南一条通(銭函道)の西20丁目付近は、その昔、水色の帯で示した旧河川が南から北へと流れていました。その後、明治15年頃には、緑色の線で示したように川が流れていました。恐らく、斜め通りが作られた明治4年頃も同じだったでしょう。この場所は、川の流れが何度も変わり、「高低のかなりに甚だしい荒地」だったと推定されます。

 斜め通りとなった理由ですが、南1条通りの南側(現在の南2条西18丁目と西19丁目の界あたり)から流れ出した川は、赤色の点線で示したように流れて、南1条西20丁目付近で斜め通りと交差し、その後、西20丁目通りを蛇行しながら北に向かって流れていたのではないでしょうか。
 この赤色の点線で示した部分の川の流れを避けるように、「斜めの通り」になったのではないでしょうか。

 これが私の推理した「斜め通りとなった理由」ですが、皆様の推理はいかがでしょうか?また、本当の理由をご存じの方はいらっしゃるでしょうか?

斜め通りの大事件

 大正12年になって、南一条通りを走る電車が西17丁目から円山公園一歩手前の琴似街道に折れるところまで延長された時に、下に再掲しました昭和4年の「大日本職業別明細図」の電車が通る道路のようになり、斜め通りが取り残されました。


斜め通りと電車通り
(「大日本職業別明細図」、昭和4年)

 ところが、電車事業に携わっていたはずの助川貞二郎が、この直後に、とんでもない行動に出ます。

円山へ行く二十丁目道路、市の所有か助川氏の所有か(北海タイムス、大正15年10月9日)

 札幌市の西方円山に通じる二十丁目道路に関し、市と助川氏が近頃珍しい係争問題を起こし、それに付近の住民が絡んで、三つ巴の紛糾を極めている。
 事の起こりは、都市計画当時に遡らなければならぬ。
 当時市道とし、後国道に移し、再び市道になっている円山公園通り二十丁目の道路、しかも、彼の地は畏(かしこ)くも明治大帝行啓(正しくは行幸)の砌(みぎり=おり)、御通りになった歴史ある市道である。

 然るに、該二十丁目(正しくは十九丁目)の軌道会社廉売所(十九丁目市場)、湯屋(大日本職業別明細図にある「松の家」のことでしょう?)のある地域は何れも助川貞二郎氏の所有地であって、助川氏は目下、同地に建築中であり、更に今後も建築、増設しようとの計画の下に、地域境界標を建てた。
 之が、抑々(そもそも)紛糾の始まりである。

 今回、助川氏の境界標建立のために、従来市道として通行していた道路は、此の後に閉鎖されるに至り、常に朝夕、該所を交通していた十八九丁目住民は、俄(にわ)かの交通遮断に疑念を懐き、市当局に迫り、市の所謂(いわゆる)市道区域図に拠る境界を明らかにせしめたところ、市当局は依然従来交通せる道路、現状に標木を打ったので、猛り切った住民も茲(ここ)に一安堵したまでは良かったが、之を見た助川貞二郎氏は直ちに市役所に至り、津田土木課長を現場に案内し、一喝の下に又もや助貞氏の主張通り、市道を閉鎖した境木が打たれたのである。

 此の眼前の状態を目撃した該住民は、極度に憤慨し、住民挙(こぞ)って蹶起(けっき)し、助川氏の横暴と津田市土木課長の無見識を攻撃の的として押しかけ、今や道路地争奪の一大決戦が演ぜられつつあり、遂に警察騒ぎまでならんとする形勢にあるが、該道路はかの藻岩村から生産する青物(蔬菜)を市民に供給するには是非通過せねばならぬ箇所であるので、この両者何れが勝つか負けるかは、頗(すこぶ)る興味ある問題であるとともに、他面、札幌全市民に深き関係あり都市計画から見れば、極めて重大問題とし、一般からの多大の注目を惹(ひ)いている。

 ここで、『明治大帝行幸の折、御通りになった歴史ある市道』とありますので、問題となった道路は、この「斜め通り」のことでしょう。

助川氏の行為に二十丁目住民怒る(北海タイムス、大正15年10月12日)

 付近の住民たちの抗議により、工事はいったん中止されます。

二十丁目の住民再び激昂市役所へ(北海タイムス、大正15年10月28日)

 工事中止の猶予期間の一週間を経過したので、建築工事の進行に取り掛かったため、付近住民側は再び激昂し、丸山代議士(札幌市議会議員)が加わって、二十六日午前十時市役所に出頭、津田土木課長、高岡市長に面接し、至急解決方を迫った。

 実は、この事件の2年前の大正13年にも、西19丁目通りの突き当り、南1条通りに面した道路上に住宅を建築し、西19丁目の道路が通行できなくなる問題を起こしています。(北海タイムスの記事「(公開論壇)札幌市の道路」、大正13年4月8日)

市側の態度一変して断固たる処置に出でん(北海タイムス、大正15年11月28日)

 市議会で複数の議員から本問題に関する質問を受け、緩慢の態度を採っていた市当局も最早棄て置けないと判断し、建物の撤回を命令するとのことです。

事件の原因

 この後の新聞を読みますと、この事件の原因は、次の様なとんでもないことでした。

 この土地は、助川貞二郎がそれまでの土地所有者であった藪惣七から、電車を通すためという理由で購入しましたが、その後、藪惣七との約束を勝手に変更し、この土地の一部に住居を建てることにしました。住宅を建てるにあたって、購入した土地の帳簿上の面積よりも実際の面積が不足していたため、自分の土地の横を通っている国道(斜め通り)の一部を自分の土地であると主張し、国道を通せんぼしたとのことです。なお、藪惣七から土地を購入した時に土地売買の書類を作成したのは助川貞二郎だったらしく、藪惣七の子息、藪秀二氏が助川貞二郎の書類を信頼して売買したと言っており、念書もあるとのことです。

 助川貞二郎という人は、生涯、このようなことを繰り返していたのでしょう。

事件の結末

 事件から5年ほど後の昭和5年11月23日の北海タイムスの記事「道路解決の祝い」によりますと、『札幌市大通西十九丁目住民の組織している十九丁目町内会では、数年来問題となっていた十八丁目との境にある道路の敷地問題が解決したので、二十二日午後六時より、同町内金間肉店で祝賀会を催したが、同問題解決に尽力された丸川浪彌氏(札幌市議会議員)を主賓に、市役所及び新聞記者外、町民四十余名列席、盛況を呈した』とありますので、無事市民側が勝利したものと思われます。

盛んな十九丁目町内会

 西19丁目町内会の会員同士の強い繋がりを知ることができる新聞報道がありますので、ご紹介します。

 「南一西十九丁目町内会の記念式」(北海タイムス、昭和12年2月14日)
 札幌南一条西十九丁目町内会の創立十周年記念式を兼ねた定期総会は十一日午後六時より北野家に開催、小川(札幌開拓地蔵尊のお守り役であった小川直吉でしょうか?)、原正副会長以下、会員五十余名出席、消毒所、隔離病院(円山病院)移転並びに朝市(19丁目市場)改造の件をはじめ、諸報告、役員改選、勤続役員に対する感謝状及び記念品の贈呈、来賓の祝辞等あり、了って祝宴に移り、九時散会した。
 尚、感謝賞状を贈られた人々は、山崎、小川、原、金間、鑓水(今の「キッチン鑓水商店」の関係者でしょうか?)、川西、水口、高木、浦中、石川、片山、廣瀬、神田。
 因みに同町内会は、夙(つと)に会員の親睦、団結の鞏固(=強固)なことで知られ、今まで多くの有意義な業績を残している。

戦後の十九丁目市場

 戦後の昭和23年4月に米軍により撮影された空中写真です。ここに写っている市場の建物は大正13年の開業時に建てられた建物ではないでしょうか?


空中写真(米軍、昭和23年4月22日)

 この後、昭和35年と昭和51年の2回、火災に見舞われます。

(写真)猛火に包まれる19丁目市場の火事
(北海道新聞、昭和51年2月5日)

 昭和54年になると、十九丁目市場が改築され、名称が「ショッピングメイト19」に変わります。


ショッピングメイト19(ピンクの建物)
北海道都市地図(旺文社、1998年5月)

(写真)ショッピングメイト19

 平成11年、大正13年の創業以来75年の間続いていた十九丁目市場(ショッピングメイト19)は閉店しました。

最後に!今も往時のような十九丁目界隈

 十九丁目市場は、私が知らないうちに無くなってしまいましたが、十九丁目市場があった周辺では今も往時の雰囲気を感じることができます。


今はやっていない南一条通りのお店
左から「誠輪社」、成吉思汗「だるまや」、居酒屋「千成」、お好み焼き屋

 この建物は、本ページの一番最初にご紹介しました地図「大日本職業別明細図」(昭和4年)に記載されている湯屋「松の家」の建物だったとのことです。大正時代に建てられた建物のようです。残念ながら、2019年、この建物は取り壊されてしまいました。


良く食べに行ったラーメン店「たくみ」


19丁目市場で営業していた小林鮮魚店の「小林水産」


三代目が味を引き継ぐ老舗のおとうふ屋さん「青山とうふ店」

残念ながら、青山とうふ店は、2020年に閉店したそうです。


昭和21年創業、札幌の老舗ラーメン店「ゆりや食堂」と理髪店

 平成31年4月11日の北海道新聞の記事「札幌の老舗 大正ロマンに別れ 中央区「ゆりや食堂」70年愛された建物から移転」によりますと、4月27日に営業を終え、近くのビルに移転するそうです。


最近まであった本と文房具のお店「いせや」


クリーニング店でした


キッチン「鑓水商店」


十九丁目市場があった南1条西19丁目の現在


現在の斜め通り入口(南1条西18丁目)

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