北5条西18丁目にあった?競馬場

 現在、札幌競馬場はJR桑園駅から近いところにありますが、私が小学生の頃、友達と一緒に遊びに行ったことがあります。
 その当時、競馬場に塀などはなく、中に入って、湿地のようなところでカエルをたくさん捕まえて持ち帰りました。
 家で段ボール箱に入れて飼おうと思いましたが、明くる朝、カエルたちは段ボールから抜け出したらしく、一匹もいませんでした。


競馬場での思い出

 ある時、昔の新聞を見ていましたら、札幌競馬場が桑園にできた頃の不思議な記事がありましたので、ご紹介します。

どこにある札幌競馬場?

 明治の中頃、競馬場は中島遊園地(現中島公園)の南側にありましたが、1600m長のコースを持つ競馬場が必要となり、明治40年に移転しました。

 その当時の新聞によると、新しい競馬場の住所は北5条西18丁目にありました。


広告「北海道乗馬会」
(北海タイムス、明治40年8月16日)


記事「札幌競馬会の椿事」の冒頭
(北海タイムス、明治40年10月14日)

 しかし、当時の地図をみると、競馬場の位置は現在の競馬場と変わりありません。現在の住所で言いますと中央区北16条西16丁目1番地となります。


「札幌区全図」(明治44年6月)

 ここが何故、北5条西18丁目なのでしょうか?
 本当の北5条西18丁目は、地図の左下にあります。

 「円山百年史」(円山百年史編纂委員会、昭和52年6月25日)によりますと、明治14年8月23日に円山村石川藤吉外十名の連名で、桑畑の北側隣接地(現在の桑園駅付近)未開地を畑および牛馬の放牧のための共有地として払下げ出願したところ、同年9月29日付で許可になりました。(途中略)大正10年頃、札幌の膨張発展につれて円山にも住宅地化の波が及びつつあったので、この土地を売却し、処分益金をもって円山村内の市街地道路網整備その他の公共事業に充てることになりました。その時に売却した土地の住所が「札幌区北5条西18丁目28番、29番」となっており、「北5条西18丁目」は正式な住所で、この付近一帯は北5条西18丁目だったようです。

 当時、札幌競馬場へ行くには、北5条西17丁目から真北に延びた「競馬場通」を通っていたようです。この道路の始点の西側は北5条西18丁目ですので、この道路の西側一帯の住所は「北5条西18丁目」だったものと思われます。

 余談ですが、同様なことは他でも見受けられます。例えば、大正11年に現在の南1条西18丁目に移転してきた「札幌鉱務署」の当時の住所は「南1条西14丁目」でしたが、それはこの土地の元々の所有者であった「札幌師範学校」の住所でした。

競馬場通

 当時の「競馬場通」は、北5条西17丁目から現在の「新川通」までを結ぶ道路でした。恐らく、明治の中頃に、新川通と同時に建設されたものと思われます。明治40年10月11日の北海タイムスの記事「明日の大競馬」を読むと競馬場への行き方が書かれており、それによるとこの道路の名前は「樽川街道」となっています。

 この道路は、昭和の初め頃まで、札幌市街と樽川間を結ぶ道路として利用されたものと思われます。

 昭和6年に飛行機から撮影された桑園地区の写真にこの道路が写っています。
 写真の一番下に楕円形の競馬場の南端の一部が見えますが、競馬場の左側から写真の右上の桑園市街地に向かって真っすぐに伸びている道路が、この道路です。なお、写真の真ん中に見えるのは大正13年にできた桑園駅です。

桑園地区空撮、昭和6年
(札幌市公文書館) 


桑園地区空撮(昭和6年)の説明

 写真を見てお分かりのように、この道路はすでに途中までしかありません。道路が途切れたところの右側に桑園小学校の建物が見えますので、北7条までしか残っていないことがわかります。北5条から北7条までの間は住宅などが建ち並び、道路が消えてしまったようです。

 JR函館本線の北側は今も健在ですが、南側については昭和10年頃までには桑園市街地の中に取り込まれ、跡形もなくなってしまいました。


昭和10年地形図


真北に伸びるかつての競馬場通(樽川街道)

札幌競馬場の椿事

 先にご紹介しました明治40年10月14日の北海タイムスの記事「札幌競馬会の椿事」のことですが、競馬場が中島遊園地(現中島公園)から桑園に移転した最初の競馬会で起こった出来事です。当時のこの付近の状況を推し量ることができる「椿事」です。
 それでは、記事の内容をご紹介します。

馬場の不完全、一回にて中止

 北海道競馬会の主催に係る秋季競馬会は既報の如く、昨十二日、北五条西十八丁目の新設馬場に於て挙行されしが、午前十時半、十四頭立第一競馬を開始するや、行形二郎氏所有占飢号は出発点より僅か五六十間(約90~100m)の個所にて躓くよと見る間に、馬脚深く土中に没し去りて、騎手は投げ出されて微傷を負い、馬匹は背骨を打折り、気息奄奄たる(=息も絶え絶えなさま)ものありしが、他の十三頭は依然競技を続行せしに、決勝点に入らんとする際、藤井喜作氏所有鞠花号は又もや馬場の不完全なるが為め、踏み込みて上肋骨を折しを以って、直ちに競争を中止せしが、此の時既に、雷電、金鶴、花咲の順序を以って、之を第一競馬の優勝馬匹と為し、当日の競馬は第一回限り中止に決し、善後策に就いては昨夕迄、役員会は鳩首協議する處ありしが、馬場の修繕等は短時間の善くする處に非ざるを以って、本月の二回目競馬は能わざる可し、因みに記す占飢号は其の後、応急手当を加へたれど生命は殆ど覚束なし(=おぼつかない)と。

 私が小さい頃も馬場の内側はまだ湿地のような状態でしたから、移転してきた当初はどれほどでしたでしょうか?


札幌競馬場、昭和11年頃
(「札幌市写真帳」、北海道大学付属図書館蔵)

最後に

 最後に、少し長くなりますが、桑園に競馬場ができた頃のことを伺うことのできる新聞記事を一つご紹介します。

郊外繁盛記、桑園方面(その7)競馬場も発展の一因(北海タイムス、昭和2年9月13日)

 本年、北五条電車の開通した時、その夜、電車の乗客は、『随分桑園は発展したものだ。植物園の端から西十四丁目迄、三町の間は商業市街となっている』と述懐して居た。自分も成程と今更ながら明るい両側の商家を見直した。

 明治四十年、競馬場が中島公園からこの土地に移される迄は、北五条には家という家はなかった。酒田武士が桑園を切り開き、桑畑となして以来十六年、開拓使が桑園を民営に移す時、長野県の養蚕家、今の桑園の衛生火防組長原さんの先代外六戸を入れた以外は、炭鉱汽船が社宅を建てたのと、其の後、少数の農家が耕作していただけの寂しさであった。
 所が、競馬場が出来てからは、急に家が立ちならび、発展するようになった。殊(こと)に当時、競馬場通りは西十七丁目にあったのを、その後、今の競馬場通り(西十三丁目)に開鑿(=開削)してから、急速の発展を示すに至ったものである。こうしたように、競馬場と桑園発展と離すことの出来ぬ関係にあるので、少しく本道競馬の変遷を綴って見よう。

 開拓使は言う迄もなく、馬匹改良には力を入れた。当時、移民といっても屯田兵であるが、此の人達が馬を持ち寄って競馬をするようになった。記録によると、明治五年、北六条で三百間の直線競馬をしたのが札幌競馬の濫觴(らんしょう、=物事の始まりの段階のこと)であり、八年に至って、札幌停車場通り舊(=旧)裁判所付近に不正方形の競馬場を造ったのが競馬場設置の嚆矢(こうし、=物事のはじまり)である。十年には、今の北大農学講堂の所に移し、十四年には明治大帝の臨幸を仰き、札幌競馬界に一段の光栄を添えた。其の後、十九年に至って、中島公園に移し、楕円形五百二十五間の騎道周ある立派な競馬場を造った。次いで、四十年には今の競馬場に移したのである。

 此の間、競馬会長には拓殖功労者永山武四郎将軍を戴いて、将軍は十ヶ年会務を見られた。爾後、谷七太郎、南部源蔵、渡邊水哉将軍の諸氏が会長となり、馬匹改良奨励に努力した。美濃部俊吉氏が会頭の時、持田謹也氏が副会頭に就任するに至って、会の発展を〇策する所あった。是迄は札幌競馬会は何等組織だったものでなかった。持田氏は、競馬界五派の軋轢を調停し、四十年、社団法人となし、次いで、二十五万円の北海道馬匹奨励株式会社が組織されたが、四十二年には此の会社を札幌競馬会に買収し、札幌競馬倶楽部と改称したのである。持田謹也氏が当時、理事長となり、今日の大をなすに至ったのである。

 持田氏は、子取川付近二十七町歩を一万五千円で、谷(七太郎)氏から買受け、四十年、ここに競馬場を移した。その設備は、昼夜兼行一ヶ月で竣功させた。移転当時、北五条界隈に六十戸の家が増したと述懐している。春秋二期の競馬の際、桑園は時ならぬ賑わいを示すばかりでなく、三月から九月迄、少ない時で馬百二三十頭、多い時は二百頭と、その付添人が定住し、桑園商人が之に対し、物資を供給して、その餘澤(よたく、=広大な恩恵)をこうむっているのである。

昔と今の札幌競馬場


昔の札幌競馬場
国土地理院、空中写真(昭和23年4月)


現在の札幌競馬場
(Googleマップ)

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