札幌の表参道駅(市電と表参道)
札幌円山の裏参道は一時有名な通りで、帰省した時には家内や子供たちと一緒にショッピングなどで大いに楽しみましたが、残念ながら今は昔の出来事に近い状態です。実は、私がよく知っている裏参道は、有名になる前の古い商店街で、私の好きなお店があって、よく自転車で行きました。
ところで、その昔、「表参道」駅があったことをご存知でしょうか?と言っても地下鉄やJRの駅ではありません。市電の停留所でした。
私が小さい頃、地下鉄はなかったので、町の中心や円山に行くときは市電やバスあるいは徒歩でした。比較的多く利用したのは市電です。
現在の札幌市電
今は路線も少なくなりましたが、よく利用していた市電のことや通学路だった表参道(北一条通)のことなど、昔のことを調べてみたいと思います。
札幌市電の延伸と表参道駅
西18丁目付近における札幌市電の延伸の状況です。
大正7年(電車の営業開始)
8月13日、札幌電気軌道株式会社により開通式が執り行われ、南1条東2丁目から南1条西15丁目までの間で南1条線の営業が始まりました。
札幌市電路線図(大正7年)
(さっぽろ文庫22 「市電物語」)
大正10年(南1条線の延伸)
南1条線が延長され、南1条西14丁目から南1条西17丁目までの間が開通しました。
大正12年(円山線の開通)
11月17日、円山線が開通し、南1条西17丁目から琴似街道
昭和2年8月31日の北海タイムスの記事「郊外繁盛記、円山、桑園(その七)昔は電車不歓迎」によりますと、電車が開通した後、円山村の人口は急増したそうですが、電車が開通する前は反対運動があったそうです。
『電車の開通した頃には、南一条から以北、北一条までの間、即ち電車線路の大通を中心に新築家屋が続出したのであって、大正十二年
殊に南部の如きは、素晴らしい繁昌ぶりで、今日では既に電車線路付近よりも却って賑やかになっている。これほど電車のおかげを蒙
札幌の電車は、大正七年の開道五十年博覧会に間に合うよう、やっとこさで開通したものである。それまでは馬鉄と称し、ロボロボした馬が、トロッコみたいな軌道馬車をゴロゴロ曳いて、札幌のアカシヤ街を馬糞臭くしていたものである。これでは緑の都の北海の首都も、だいなしだ。第一、開道五十年の看板の手前、内地の来賓に申訳ないとあって、俄
当初予定していた円山線のルートは南1条通り(現裏参道)でしたが、この時の地主と居住者の反対で実現せず、南1条通りから1本北側の南大通りを通ることになったとのことです。(さっぽろ文庫58、札幌の通り「電車通り」より)
「円山百年史」によりますと、地主の同意が得られた南大通りは当時野菜畑で、障害物がなく、工事の施工も比較的容易であったとのことです。
大正13年(円山線の延伸)
さらに円山線が延長され、琴似街道駅から終点円山公園駅までの間が開通しました。
昭和2年(北5条線の開通)
5月26日、北5条線が開通し、札幌駅から二中前(北5条西19丁目)までが開通しました。
昭和2年12月~昭和4年9月
(さっぽろ文庫22 「市電物語」)
12月1日、電車の経営が、「札幌電気軌道株式会社」から「札幌市営」となりました。
昭和4年(西20丁目線の開通)
11月10日、西20丁目線が開通し、大通西20丁目から二中前(北5条西19丁目)までの間が延長されました。
札幌市電路線図
昭和4年10月~昭和6年10月
(さっぽろ文庫22、「市電物語」)
札幌市電路線の拡大図
11月10日の北海タイムスの記事「市電二十丁目線、今朝開通」には、次のように書かれています。
『札幌市電気局で予ねて工事中であった北五条線と南一条線を連絡する西二十丁目線は、この程工事全く竣工し、いよいよ今日十日早朝から電車を運転することとなった。
この新線には札幌第二中学校正門前に「二中前」、北一条通に「表参道」の二停留所が設置された。従来、北五条線の終点を二中前といって居たが、今度二中前は新線の二中正門前に出来たので、従来の二中前停留所は二中裏と改称された。
尚、新線の運転系統は札幌駅前から北五条線、二十丁目線を通って、一条線西四丁目十字街までを往復する、いはゆる複線の馬蹄形運転で、約十八両の電車を動かす筈であるが、従来円山の花見時には、各方面から群がる乗客を一条線一本で運んで居たが、今度はこの新線の開通に依り、札幌駅方面からは二経路出来たわけで、非常に緩和されるであろう。』
当時、表参道停留所にあった切符売り場の写真が残されていますが、周辺は果樹園か種苗園のようで、家は見当たりません。
円山表参道切符売り場(昭和5年5月)
(札幌市公文書館)
「円山百年史」によれば、西20丁目線の電車の開通に伴い、西20丁目通りの道路幅員をそれまでの二間から十二間に広げたそうです。今の西20丁目通りを見ると想像できませんが、電車が通る前は狭い道路だったようです。
昭和6年
昭和6年11月~昭和23年8月
(さっぽろ文庫22、「市電物語」)
この年以降、1972年の札幌オリンピックまでが、市電の全盛期でした。
表参道は何時できたのか?
札幌市電の表参道駅は昭和4年にできて、昭和6年にはなくなったことは分かりましたが、そもそも「表参道」は何時できたのでしょうか?
南一条通りは明治元年の古地図に、既に「銭函道」という名前で載っています。一方、北一条通りですが、大正5年の地形図によると札幌市側は西20丁目までしかなく、円山村側は現在の西25丁目
表参道ができる前(大正5年地形図)
ただし、札幌市側の三井倶楽部より西側の西17丁目から西20丁目までの間は、道路と呼べる状態ではなかったようです。大正5年の地形図では、南1条通りと北1条通りでは道路の描き方が全く異なっています。
次の写真は、大正3年の北1条西15丁目付近の写真です。写真の右端に写っている建物は種物店の寿仙園で、現在は「北一条西交番」が建っています。建物の前の人力車が通っている道路が当時の北一条通りで、雪道で特に狭くなっていますが、馬車1台が通れる程度の道路でした。
北1条西15丁目、寿仙園附近、大正3年3月8日
(「北海道古写真」、北海道大学付属図書館蔵)
西20丁目から西25丁目までの参宮道路ができたのは、大正9年になります。
大正9年5月4日の北海タイムスの記事「圓山の新道路仮開通」には、開通の状況が次のように書かれています。
『来月例祭執行の札幌神社祭典年番第十区にて昨年来企図せる同社圓山村より札幌区北一条西十九丁目へ直線に通ずる新道路、幅十二間に延長三百十余間の開鑿
私も、学校で教わったのか友達から聞いたのかよく覚えていませんが、この道路ができる前は畑で、道路用地を皆で寄付してでき上ったと聞いています。
さらに、三井倶楽部から西20丁目までの道路ですが、大正9年5月19日の北海タイムスの記事「札幌区土木工事」によりますと、『北一条西十六丁目と二十丁目神社通に連絡する道路の改修工事は、材料の騰貴と労力の払底等に妨げられ、工事の着手を見合わせており、物価の高騰が継続すれば計画を縮小するか、追加予算を提出するかのいずれかを選択するほかないであろう』とのことです。
西20丁目から25丁目までの道路の開通に合わせて、札幌区が西16丁目から19丁目までの道路を拡幅する計画であったようですが、これ以降の新聞を見ましても、この道路工事に関する情報は見当たらず、何時、現在の道路のように拡幅されたのかわかりません。しかし、この年以降の札幌区の土木工事関係予算を見ても、この区間の道路に関する予算は見当たらないことから、この年に道路の拡幅工事は実施されたものと思われます。
北海道神宮(札幌神社)道標
大正10年5月6日の北海タイムスの記事「札幌神社指導標建標式」によりますと、札幌神社祭典第十区では、北1条西4丁目の角に札幌神社への道標として、表面には「北海道総鎮守 官幣大社札幌神社」、裏面には「大正九年六月一日道路開鑿記念 是自二十八丁第十区」と刻した標石の設置を大正9年12月から進め、愈々落成したため、大正10年5月10日に除幕式を行うとのことです。
建設当初の北海道総鎮守札幌神社 道標
(絵葉書)「札幌の美観 札幌市北一条」
(札幌市中央図書館デジタルライブラリ)
なお、標石は現在も北1条西4丁目に建っていますが、当初建てられた位置とは異なり、中央分離帯に建っています。また、現在の表面には「北海道総鎮守 北海道神宮」、裏面には「大正九年六月一日神社参道開鑿開削記念 祭典第十区」と刻まれています。
現在の北海道総鎮守北海道神宮 道標
(北1条西4丁目)
開通した表参道
大正14年の「最近札幌市全図」に新しく開通した
新しい道路は札幌区の北一条通と圓山村の表参道を直線で結びましたので、斜めの道路に仕上がっています。
大正9年に開通した表参道
「最近札幌市全図」(大正14年)
この道路は私の通学路で、毎日この道路を歩いて学校へ通っていましたが、歩いている分には、斜めの通りとは感じられませんでした。
なお、ここで紹介いたしました「表参道」ですが、私が小さい頃は「北一条通り」と呼んでいました。また、道路ができた頃は「参宮道路」あるいは「神社通」などと呼ばれていたようですが、ここでは「表参道」と書かせていただきました。
円山線の風景
再び、電車のお話に戻りますが、堀淳一氏が「電車のある風景」(さっぽろ文庫2、札幌の街並み)の中で、円山線の風景を次のように書いています。
『市電の南一条線は、西20丁目で北へ曲がって長生園の前まで行き、ここから再び西へ向かって円山公園に達していた。長生園前(ここに西20丁目)停留所があった)と円山公園の間は、南大通を走っていたのである。
南大通という名前からも、電車通りだったということからも、公園ないし札幌神社(現北海道神宮)へのメインストリートをつい想像してしまうが、メインストリートはむしろ一本南の南一条通りであって、電車道の方は裏通りというおもむきが強かった。広いばかり広いが、砂利がゴロゴロしており、道ばたは雑草がチョボチョボと生え、その上電車の軌道は、道路の上ではなくて専用の軌道敷の上に敷かれているかのような、枕木が露出した軌道だったから、道路というよりは、空地という感じだったのである。両側の住宅も、道に面しているのでなく、背を向けているような風情で立ち並んでいた。電車はそんな家々の、塀で囲まれた「裏庭」の間を、郊外鉄道ふうのレールの響きをけたてて、疾走するのだった。』
撮影時期は不明ですが、線路の周りは畑ばかりのようですので、円山線が開通してさほど年月が経っていない頃の写真と思われます。また、「円山百年史」によれば、線路の両外側は道路用地なのですが、まだ道路工事が始まっていないようです。
円山線(円山より西20丁目方向)
(札幌市公文書館)
さらに、「電車のある風景」を続けます。
『途中に「琴似街道」という停留所があった。西二十五丁目の、琴似へぬける道々と交差するところである。そのむかし、ここから南へ向かって、札幌郊外電気軌道という軌道が出ていた。双子山のふもとにあった札幌温泉へ客を運ぶために昭和四年六月に開業した電車なのだが、延長わずか1.8キロ、電車が二両とガソリンカーが一両いるだけ、というミニ鉄道だった。営業成績は芳しくなく、ほんの数年の間しか走っていなかったらしい。私が札幌へ移り住んだ直後の昭和十年か十一年に、すっかり錆びたレールだけが琴似街道の道の脇で草に埋もれているのを、市電の窓から見た記憶がある。』
上の「札幌郊外電気軌道」ですが、正しくは札幌温泉電気軌道と言い、駅があったのは「琴似街道」ではなく、琴似街道から一つ東側の「円山三丁目」(現在の西23丁目通り)にありました。
札幌温泉電気軌道
「新しい札幌の地図」、昭和6年
(北海道大学付属図書館蔵)
また、「電車のある風景」を続けます。
『円山公園終点には、お祭りの時などにどしどし増発される電車をさばくために、複線のレールのほかに側線が一本あって、三本のレールが並んでいる上、レールの終端から公園に入るところに、改札口が設けられていた。そのいかにもターミナルらしい風格も、今は過去帳の中に入ってしまった。』
『公園に入るところに、改札口』とは、円山停車場のことと思われます。1948年に米軍が撮影した空中写真に、円山公園の入口付近に設けられた円山停車場の建物を見ることができます。
なお、円山停車場の北隣りの後楽園(建物と遊園地)は、大正12年に円山線を円山公園まで延長する条件で、電気軌道会社が土地所有者から購入したとのことです。
円山停車場があったところ
(米軍空中写真、1948年4月22日)
ちょうど、花見の頃の賑わいでしょう。円山停車場の写真です。
円山停車場(昭和5年5月)
(札幌市公文書館)
最後に
参宮道路が開通する前の頃の南1条通りと北1条通り付近の様子がわかる新聞記事を紹介します。
郊外繁盛記、円山、桑園(その二)幼い記憶を辿りて(北海タイムス、昭和2年8月26日)
当時の練兵場
今の北一条の参宮道路なんてものはなかった。北一条は三井倶楽部で殆ど切れた形であった。それから先は一面の桑畑であった。あの方面を今日、桑園と呼ぶのは、桑畑であったからである。私達が西十五丁目に移転した当時は、未だその方面に桑畑があった。参宮道路が出来、それから何条の何丁目と区画されたのは、ほんの近年のことである。
かつて電車が走っていた南1条通りと西20丁目通り、表参道(参宮道路)など、昔と今の写真です。
昔と今の写真
かつて電車が走っていた南1条通り(南1条西18丁目)
電車が走行していた当時の同地点の写真(昭和44年10月)
(札幌市公文書館)
かつて西20丁目駅があった付近(大通西20丁目)
電車が走行していた当時の同じ地点の写真(昭和36年7月)
現在の表参道=北一条通り(西20丁目から北海道神宮方向)
かつての円山線の電車通り(西20丁目から円山公園方向)
表参道駅があった北1条西20丁目交差点の現在