円山村界を流れていた川
昭和の半ば頃まで、西18丁目の付近でもメム(泉)が湧き出していました。
最もよく知られているのは、知事公館の中にあったキムクシメムでしょう。キムクシメムとそこから流れ出た小川については、本ホームページの「知事公館から流れ出した川」で、詳しく紹介させていただきました。
そのほかにも、札幌市と円山村の界に流れていた川もありました。
昭和16年に札幌市と円山町(昭和13年4月15日、円山村は円山町となりました)が合併するまでは、西20丁目付近を流れる小川が町の境でした。
円山村界(大正5年地形図)
今は消えてしまった円山村界を流れていた川が、どこを、何時頃まで流れていたのか、調べてみたいと思います。
今も残る川の跡
北2条〜北3条西22丁目付近に行くと、今でもかつて円山村界の川が流れていたことを伺うことができます。
円山村界にあった川の跡(北3条西22丁目)
終戦直後の1948年に米軍によって撮影された空中写真を見ると、さらに広範囲に川の跡を確認することができます。
円山村界の川の跡(米軍、1948年4月22日)
西22丁目の通りは、北2条の川跡(黄色い矢印のところ)までしかありませんが、今でもこれより先の道路はありません。
また、空中写真では多少わかりずらいかもしれませんが、川跡の右側と左側では道路の幅員が異なっています。この写真が撮影された時点では川跡の両岸ともに札幌市でしたが、右側の旧札幌市側は道路幅が広く、左側の旧円山村(町)側は道路幅が狭くなっています。今も円山方向に道路を進むと、川の流れていた跡から幅員は急に狭くなっています。
大正五年ころの川の流れ
大正五年の地形図を見ると、上流側の流れも確認することができます。
大正5年頃の川の流れ
川は、北1条西18丁目の蚕業講習所の構内に設置された入口道路付近から流れ出し、北1条西20丁目の交差点付近を通って、北に向かって流れています。
さらに上流側を遡ることができるのか、調べてみましょう。
明治27~28年頃の川の流れ
大正5年よりも前、川はどこを流れていたのか調べてみましたら、2つの資料に行き当たりました。ひとつは、「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」(明治27~28年頃作成)で、もうひとつは、「札幌養蚕場 第一号桑園」(明治15年作成)です。
「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」は、札幌市の有形文化財に指定されています。
現在の位置関係を理解することが容易なように、「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」と大正五年の地形図と重ねあわせてみました。
明治27~28年頃の川の流れ
水色で着色した川の流れを見てお分かりのように、堯祐寺の西側から蚕業講習所の中を通ってきた川と円山病院の敷地の中から流れてきた川が、北1条西20丁目付近で合流しています。
また、円山病院の中から流れ出る川もそうですが、堯祐寺の西側を流れる川も南一条通よりも北側から流れ出しています。
しかし、竪穴群分布図をよく見ますと、南一条通りよりも南側(現在の西18丁目と西19丁目の間の小路付近)にも川の流れ
なお、濃い青色の楕円で囲ったところは竪穴式住居群があったところで、堯祐寺の付近と南一条通よりも南側の等高線(赤色の線)が谷状になっているところの近くに集中しています。
上の地図(大正五年地形図との重ね合わせ)にある養蚕講習所(養蚕伝習所)は、明治22年に開設されました。一方、円山病院は避病院という名称で明治12年頃からここにありました。また、師範学校は明治27年にここに移転してきました。従いまして、「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」が作成された明治27~28年頃には、これらの施設は既にここに存在していました。ただし、堯祐寺については大正2年の創立ですので、まだここにはありませんでした。
明治15年頃の川の流れ
続いて、既に当ホームページの「森源三邸(知事公館)」でも紹介した「札幌養蚕場 第一号桑園」です。
札幌養蚕場 第一号桑園(明治15年)
(北海道立文書館・デジタルアーカイブ)
「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」と同様に、「札幌養蚕場 第一号桑園」を大正五年の地形図と重ねあわせてみました。
明治15年頃の川の流れ
緑色で着色した川の流れを見てお分かりのように、「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」による川の流れとほぼ同じですが、堯祐寺の西側を流れる川については、堯祐寺から少し離れたところを流れています。また、堯祐寺の南側の南1条通り付近には池(メム)があり、「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」に描かれている堯祐寺の西側を流れる川はこの池から流れ出ていたようです。
さらに、20丁目通りを蛇行して流れる川は、川巾が広いため、札幌と円山の界となった川でしょう。「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」では、この川は円山病院から流れ出していましたが、明治15年当時は南1条通り(銭函道)よりもさらに南側から流れていたようです。
なお、「札幌養蚕場 第一号桑園」は、明治8年に酒田藩の藩士が耕した桑園の地図であるため南1条より北側しか描かれておりません。したがって、これらの川がどこから流れてきたのかについては、この資料からは分かりません。
「開拓使事業報告 第2編 (勧農・土木)」の橋梁の項を見ますと、明治8年12月から明治9年5月にかけて、円山村境に板の橋が架けられたことが書かれており、その橋は20丁目通りを蛇行して流れる川に架けられたものでしょう。
赤で着色した線は大正5年の地形図に描かれている等高線ですが、堯祐寺の西側を流れる川は、この等高線の谷から流れ下ってきているようです。この谷は、かつて川が流れていたところと推定されます。現在の地図と重ね合わせますと、この谷はちょうど西18丁目通りと重なりました。さらに、大正5年当時、師範学校敷地内の等高線の谷がある付近は緑色で示したように樹林の縁になっています。この付近は、昔から川が流れていたために土地利用が進まず、現在の知事公館のように、川の流れた跡が残り、起伏のある地形が残っていたのではないでしょうか?
開拓がはじまった頃やそれ以前の川の流れ
これらの川の上流はどこを流れていたのか、さらに調べましたところ、二つの地図を見つけました。
札幌郡西部図(明治6年)
その一つは、明治6年に作成された「札幌郡西部図」です。
「札幌郡西部図」(明治6年)
地図を見ますと、黄色い矢印の先、「一里方内」の線と「本願寺
黄色い矢印の先は、「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」で南一条通の南側に書かれていた短い川、すなわち、20丁目通りに沿って蛇行しながら流れていた川の上流ではないでしょうか?
なお、「一里方内」の線は、本府(開拓使)を中心にして東西南北一里四方の範囲を示したもので、明治5年頃に、この線(現在の西20丁目通り)の付近を流れる小川を札幌の区域としたとのことです。
新川開墾建議図(明治4年3月)
もう一つの地図は、開拓使による開拓が始められた直後の明治4年3月に作成された地図「新川開墾建議図」に、円山村界を流れる川の最上流の様子が描かれていました。
なお、図面の北を上にしたため、文字が上下逆になっているところがあります。
明治4年頃の川の流れ
「新川開墾建議図」(明治4年3月)
黄色い矢印の先、札幌界と丸山界(円山界)の間を流れる川がそれです。
銭函道(現南一条通り)の南側、「本願寺」
明治の初め頃の銭函道
銭函道には円山村界を流れる川以外にも、「新川開墾建議図」には記載されていない多数の川が横切っていました。さっぽろ文庫 50 「開拓使時代」には、明治の初め頃の銭函道の様子が次のように書かれています。
『島義男開拓判官が、石狩本府建設のため銭函から札幌へ向かったのは明治二年十一月である。一行が歩いた道は、手稲山地の裾野をつたっていくルートで、原野密林の中とはいえ、人跡未踏というわけではなかった。安政4年(1857)2月、蝦夷在住希望の士族とこれに従う農民十戸が星置、発寒、琴似に入植していた。同年秋には松浦武四郎が石狩詰出役飯田豊之助とともに、このルートを通って札幌から千歳へ踏査しており、翌年にかけて小樽内などの場所請負人の手で銭函から札幌、千歳へいたる街道が開削されている。
・・・(途中略)・・・
明治6年開通の札幌新道に対応して、銭函道も馬車道として整備されたが、もともと幾筋もの川をわたる道であり、ところによっては湿地帯を横切らねばならなかった。
手宮鉄道開通まで、札幌小樽間の貨物はこのルートの馬匹運搬が主力であった。数十頭をつないでいく駄馬列は、市街地に入っても時には泥濘馬腹に達し、人は路上に板を敷き、その上を通行する状態であったという。』
札幌扇状地古河川図
最後に、昭和28年に出版された「札幌市史 第1(政治行政編)」に掲載された「札幌扇状地古河川図」です。『本図は明治初年の古い地図や古老談、明治以来のはんらん跡等を手がかりとして、最近まであった河流を示したものである。』と書かれているように、明治の初頃あるいはそれ以前の川の流れを推定したものでしょう。なお、位置関係が分かりやすいように、昭和28年当時の電車、鉄道も描かれています。
「札幌扇状地古河川図」(「札幌市史」、昭和28年)
何故、この地図に注目したかと言いますと、昔、円山にあった重兵衛沼や札幌と円山の界を流れていた川の最上流として、現在の西線(札幌市電)の東側、二条小学校あたりに池が描かれているからです。
この河川図を、大正5年の地形図と重ね合わせしてみました。
札幌扇状地古河川図の川の流れ(推定)
明治15年および明治27~28年頃の川の流れと多少異なっていますが、最も大きな違いは、町境の根拠となった北1条から南1条間の西20丁目通り沿いに川の流れがないこと、大正5年の地形図に描かれている師範学校の南端あたりに池があって、そこから川が流れ出ていることです。
川がどこを流れていたのか資料等で調べるのは、ここまででしょう。これよりも前に作成された川に関する資料は少ないためです。
しかし、明治以前の川の流れやこの湿地の上流がどうなっていたのかを探るために、さらにほかの資料を調べてみました。
大正5年地形図の等高線を辿る
大正5年の地形図に、師範学校の西側、円山村界を流れる川と一条通(南一条通り)とが交差する付近で川が流れた跡のような等高線の谷が見られますが、この等高線の谷をさらに山鼻方向に辿ってみました。
川が流れた跡と推定される等高線の谷(大正5年地形図)
地図上の水色の線は明治27~28年頃の川の流れ、緑色は明治15年の流れです。また、赤い点線で示したのが、等高線の谷を結んだ直線です。それは、山根通りと西屯田通りの中間(現在の西17丁目付近)を通って、藻岩下の方角に繋がっています。
昭和2年9月17日の北海タイムスの記事「さっぽろを流れた川の跡を訪ねて」によりますと、北大農学部高倉新一教授による研究結果が紹介されており、『明治初年に市に流れていた河川の跡をたどって見たところ、・・・(途中略)・・・、現在の豊平川上流から山鼻へぬけて
地質図による川が流れた跡
産業技術総合研究所 地質調査総合センターが発行している「特殊地質図 札幌及び周辺部地盤地質図」で、川の流れた跡を見ることができます。
「札幌養蚕場 第一号桑園」に描かれている川の上流はどうなっているのか確認するために、大正五年の地形図の上に、「特殊地質図 札幌及び周辺部地盤地質図」の川が流れていた跡を重ね合わせてみました。
地質図の川の流れた跡
(地質図と大正5年地形図との重ね合わせ)
黄色を茶色の線で囲ったところが、川が流れていた跡です。
緑色の線は「札幌養蚕場 第一号桑園」(明治15年)に描かれている円山村界の川の流れ、水色の線は「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」(明治27年から28年頃)に描かれていた川、さらに青色の線は「札幌市史」(昭和28年)に記載の「札幌扇状地古河川図」の川の流れです。
明治15年に堯祐寺の西側を流れていた川は、「特殊地質図 札幌及び周辺部地盤地質図」の川が流れていた跡に繋がっています。また、「札幌扇状地古河川図」の川の流れも、川の流れた跡に繋がっています。この川の流れた跡を辿っていくと、藻岩下付近で豊平川から分流し、東本願寺の南側を通って流れてきています。
川の流れた跡の二手に分かれた左側の近くに住んでいたお家(南4条西16丁目、紫色の
川が流れていた頃の思い出
この付近の川の流れた跡などの地形に関する昔話や思い出、写真などを見つけることができました。
むかし話「狐にだまされた話」
一つ目は、「円山百年史」(円山百年史編纂委員会、昭和52年6月25日)に載っている昔話「狐にだまされた話」です。
『円山四十番地(南四西二十三)に住んでいた池田松吉という人は、お酒の好きな人で、朝夕酒気が身についていた程であった。明治も早い頃のことで、当時円山には居酒屋がないので、札幌の南一条西十丁目より東のあたりまで行かなければ飲めない時代であった。
池田さんは農耕を終えて夕方、いつもの通り一杯やりたいために、市内の南二条東一丁目にあった通称雨だれ小路まで出かけた。居酒屋で飲んだあと、生魚や油揚げ、それに一升入りの酒樽を買い求め、ブラブラと円山へ帰る途中、
さて再び円山へ向かって歩き出したまではよいが、村の十字路(南一西二十四)から左へ曲がれば自分の家へ帰る道筋なのに、どうしたことかそのまま真っすぐ養樹園(今の円山公園)まで行ってしまい、そこで眠ってしまった。
翌朝、夜明けと共に目を覚まし、自分でもどうしてこんな所に寝ているのかと奇妙な思いで見ると、買ってきた酒樽だけがあって、魚と油揚げがなくなっていた。これはきっと狐がだまして持ち去ったものだろうと、村の炉辺の話題になった。』
このお話にある「南一条通り西十七丁目の小川にかかっていたばけもの土橋」はどこにあったのか、確認したいと思います。
すでにご紹介しました資料の中から、明治の半ば頃の川の流れを比較的正確な大正5年の地形図上にまとめてみました。
「ばけもの土橋」があったと推定される所
緑色の線は明治15年頃に作成された「札幌養蚕場 第一号桑園」に描かれている川の流れ、青色の線は明治27~28年頃作成された「高畑宣一による旧琴似川水系の竪穴群分布図」の川の流れです。西17丁目付近で南一条通を横切る川の流れは、赤い円で囲んだように2か所ありそうです。
右側の円は明治15年当時、川が南1条通りを横切って池のようになっていた場所で、明治27~28年頃はそこから川が流れ出ていたようです。現在の住所で言いますと、西17丁目に近い西16丁目になります。
一方、左側の円は明治15年当時南1条通りを横切って川が流れていたところで、現在の住所では、西18丁目に近い西17丁目になります。
明治15年当時は、この2か所ともに橋が架かっていたものと思われます。
左右のどちらの小川に「ばけもの土橋」が架かっていたのかと問われれば、暗渠化の数年前の明治27~28年頃に川が流れていた右側の小川ではないでしょうか?
さらに、この橋は明治30年頃に暗渠になったとのことですが、当時、この付近には円山病院、養蚕講習所と師範学校はありましたが、尭祐寺(大正2年創立)は未だなく、川が流れていた当時のの大通りは原野の状態でしたので、暗渠になったのは南一条通りだけだったのではないでしょうか?
昔の資料「北海道開拓秘録 第2編」(月寒学院、昭和24年)を見ていたら、この橋にまつわる奇怪なお話を見つけました。
『或る日、無水の古川の橋下に年増女が木片を抱いて眠っているのを通行人が発見し、呼び覚まして聞くと、自家で子供を抱いていた積りで、狐にダマされたのであった。また、寺田と云う大尉が此の同じ橋を通りかかった時、大入道が出た。大尉は之こそ狐の業だと考え、剣を抜いて切りかかったら、姿は消えて仕舞った。又、通りかかった或る人は、抱えていた魚を獲られたこともあった。某人がその邊で一頭の白狐を見たので、多分その白狐の業だろうとの噂が高く、圓山人の一大脅威であった。』
円山村の開拓に尽力した上田萬平氏が、明治43年1月3日の北海タイムスの記事「四十年前の札幌、上田萬平氏の談」で、開拓当初、鹿と狐は常日(いつも)二、三百位の大行列で歩いていたそうで、特に、大通西19丁目に避病院(後の円山病院)ができる前は、狐の巣窟だったそうです。
山岳画家・坂本直行氏の思い出
二つ目は、当ホームページの「藪惣七と大通幼稚園」でも紹介いたしましたが、大正元年から昭和2年まで、知事公館の北1条通りを挟んで南側の北1条西15丁目に住んでいた山岳画家・坂本直行氏の思い出です。これは、さっぽろ文庫 2「札幌の街並」に掲載されています。
以下、川の流れた跡に関する部分のみ、紹介せていただきます。
さらに、「北海道札幌師範学校五十年史」で同校を大正5年3月に卒業した及川滋度という人も、『今の校舎の静養室あたりだと思うが、西から東南にかなり深い凹地があって、春さきに雪どけの水がかなりたまるので、古板をもってきて筏とし盛んに漕ぎ遊び、中には沈没してずぶぬれの腕白もかなりあったものだ。』と、同様なことが書かれています。
今までに作成した図を整理した上で、坂本直行氏の思い出と比較してみました。
坂本直行氏の思い出の川の流れた跡
(大正五年地形図)
紫色の
もしかすると、更に坂本家の近くに川の跡があったかも知れません。もし、あったとすると、それは知事公館のキムクシメムと繋がっていたと思われます。
昔スキー場だった「円山の南斜面」とは、現在の双子山1~2丁目あたりのことを言っているのだと思われます。
地質図の川の流れた跡を見ると、師範学校の南側には二手に分かれた川の跡があったようです。
「新川開墾建議図」(明治4年3月)に書かれている最上流の「湿地」は、 この“へこみ”があった二条小学校の南側にあったのでしょうか?
北海タイムスの記者による大正10年頃の思い出
三つ目は、北海タイムスの記者による大正10年頃の思い出です。
会社の同僚の山口という人が大通西15丁目
以下、地形に関する部分のみ、紹介させていただきます。(「郊外繁盛記、円山、桑園(その一)西方面の新繁昌」、北海タイムス、昭和2年8月25日)
『一面、広い野原で、尭祐寺だけが目立っていた。その裏手の方に木材をきざんで居るのが見えた。藪の小住宅
知事公館内のメムや川が流れた跡
四つ目は、現在でもメムや川が流れた跡を直接見ることができる知事公館です。
知事公館内の川が流れた跡
(今は水を循環利用しているそうです)
「札幌扇状地内の泉地」(「札幌市史 産業経済編」、1958年)には、北1条西18丁目あたりに「キムウンクシユメム(上の泉池)」という池があったことが書かれています。
明治以降、円山村界を流れる川は南3条から南4条あたりにあった大きな湿地(沼)から流れ出していたようですが、明治以前の西18丁目付近にはメムがあったり、幾筋もの川が流れていたのではないでしょうか?
そして、この付近に住宅が建ち並び始める前の大正時代の頃は、今の知事公館内のように川の流れた跡がそこここにあり、平坦な土地ではなかったようです。
今も残る道路のへこみは川の流れた跡か?
かつて川が流れていたと思われる南1条通りや南3条通りで、わずかな傾斜やへこみが見られるところがあります。ただし、これは現地を直接確認したわけではありません。札幌に行く機会がないため、Googleのストリートビューで確認した結果ですので、札幌にお住まいの方は直接見に行かれてはいかがでしょうか?
一枚目は、札幌医科大学の北側を通る南1条通りを西から東に向かって撮ったものです。中央に見えているのは西18丁目の交差点ですが、この交差点から向こう側(東側)はわずかな上りになっているようです。
ここは、大正5年の地形図で、等高線が谷状になっていたあたりです。
南1条通りのわずかな傾斜
二枚目は、札幌医科大学の南側を通る南3条通りを東から西に向かって撮ったものです。
写真の中央にある横断歩道が西17丁目のT字の交差点で、その先の横断歩道が西18丁目の交差点です。
わずかな窪みが17丁目と18丁目の交差点の中ほどに見られます。
この場所は札幌医科大学の遊歩道があるあたりで、昔、お庭に池があったお家の前あたりになります。
南3条通りのわずかな窪み
この付近の等高線はどうなっているのでしょうか?
国土地理院の「自分で作る色別標高図」で、現在の標高図を作ってみました。なお、0.5m毎に色分けしています。
札幌医科大学周辺の色別標高図
国土地理院「自分で作る色別標高図」
これによると、札幌医科大学の敷地は周辺よりも少し高いことが読み取れます。
さらに、南1条通りでは西18丁目付近が最も低くなっています。
また、札幌医科大学の裏側(南3条通り)から西18丁目通りにかけて標高が低くなっており、札幌医科大学の裏側から西18丁目に回り込みながら川が流れていたような感じがします。
今も見られるこれらの道路のわずかな傾斜や窪みは、昔、川が流れていた跡なのでしょうか?
川は何時ごろまで流れていたのか?
今までは、円山村界を流れる川の上流はどこを流れていたのか調べてきました。
現在はもちろん、私が小さい時には既に円山村(町)との境界はありませんでしたし、村界となっていた川も流れていませんでした。
昭和の何年頃まで、円山村界を川は流れていたのか、昔の地図などで調べてみたいと思います。
大正14年頃
はじめに、大正14年の「札幌市全圖」では、北一条付近から流れ出しています。
「札幌市全圖」(大正14年)
この地図を詳しく見ると、赤い楕円で囲ったところにうっすらと支流が見られます。
それは、北1条西23丁目あたりから流れ出し、北3条西22丁目あたりで円山村界を流れる川と合流しています。
左隣の円山村内を流れる川も同じように枝分かれしていますので、間違いなく存在していた小川でしょう。ただし、他のどの地図にも描かれていない川です。また、昭和23年(1948年)の米軍による空中写真を見ましたが、二十数年の時間が経過しているためか、この小川のはっきりとした痕跡は見つけられませんでした。
昭和6年頃
続いて、昭和6年の「新しい札幌市の地図」では、北3条あたり
「新しい札幌市の地図」(昭和6年)
この年に撮影された航空写真の片隅に、この川の遠景が写っていました。この写真の原画では、川の流域の部分が黒ずんで不鮮明でしたため、画像処理を施し、何とか様子がわかるようにしました。
写真の上部の「白い矢印」の先が「円山村界を流れる川」です。この川の流域は畑で、川に沿って並木が見られます。
(写真)円山村界を流れる川の遠景(昭和6年)
昭和10年頃
最後に、昭和10年の地形図ですが、円山村内を流れてくる川との合流地点近くの北7条、現在の「やちだも公園」付近までは、川と見なせる状況ではなさそうです。
昭和10年地形図
結局、昭和16年の札幌市と円山町との合併時には、「円山村界を流れる川」は、札幌市街の発展とともに、消えて無くなってしまったようです。
最後に
最後に、大正時代に北5条西12丁目に住んでいた榎本政子という人がこの川で遊んだ思い出をご紹介します。
桑園のハイカラ雑貨屋さん(さっぽろ文庫43、大正の話)
私の幼いころの桑園には大きな木があり、川もたくさん流れていて、自然がたっぷりありました。(途中省略)20丁目あたりにも南から北に流れている川があって、そこにはよく泳ぎに行きました。周りは粘土で汚い水でしたが、平気なもんです。もちろん、水着なんかありませんから、お腰だけで泳ぐんです。子供ですからね。
昭和6年9月9日の北海タイムスの新聞記事「上水道用水豊平川の水質問題」に、『北大工学部地質学の福富忠男教授によると、札幌の地層は7段の棚状の地層で、豊平川に近い方では玉砂利と細かい砂、北方ではこの砂が粘土からなる』とありますので、この川は粘土で汚いように見えたようですが、大正時代には水質まで汚れてはいなかったのではないでしょうか?
続いて、少し長くなりますが、昭和の初めころの円山の村界付近の様子がよくわかる北海タイムスの新聞記事をご紹介します。
郊外繁盛記、円山、桑園(その五)札幌市から疎外(北海タイムス、昭和2年8月29日)
大体、円山がこう
その際、札幌市は、円山まではまア手が出ないが―といった形でこれを疎外し、南方の山鼻村だけを編入したものである。当時円山は、山鼻村とおんなじ行政区域にある二級町村制で、役場は山鼻(今の山鼻小学校の東隣だったかと思う)にあった。つまり、その本村を札幌市に取られた訳である。で、役場は早速円山に移転してしまった。それが今の藻岩村役場である。そうして、円山村はその大字になっている。区域は、藻岩村としてなら随分広い。何しろ円山や藻岩山の大山岳を包含していて、南北は三里余に亘っている。東西また一里二十二丁目とあり、約三方里になるそうだ。
もし、札幌市に人間が詰まって、はけ口がなくなったら、何時でも来い。いくらでも引き請けるといっている。けれども、円山村としてならそう広くはない。西二十丁目から以西、札幌神社の裏に至り、南北は藻岩山の山麓から、鉄道線路近くまで行っている。そうして、山の手を除く下の平地は大半、市街をなす様になったが、併
考えてみると、私たちが今の第二中学校
実際、歩いてみると円山村も広い。そうして南も北も、至る所、新築小家屋である。新開の町である。私は今年の春から、毎日のように円山を通っているが、月毎に、日毎に新築の家屋の殖えて行くこと、実に驚くばかりである。円山四丁目の琴似街道が、つい去年の秋まで塵芥捨場であった所も、今は立派な宅地となり、道路さえ出来て、分割されておる。路傍に家も出来て来た。電燈もついて来た。これでは琴似へ続くのも、今ひと息だと思われる。