知事公館から流れ出した川

 昭和の半ばころまで、西18丁目の付近でもメム(泉)が湧き出していたそうです。最もよく知られているのは、知事公館の中にあったキムクシメムでしょう。

 私が小さい頃、知事公館のキムクシメムから小川が流れて出ていた記憶はありませんが、親たちから『昔は知事公館の池に向かってサケがのぼってきた』と聞いています。また、知事公館の近くを通ると、敷地の外にも大きな木が生い茂り、静かなそして落ち着いた雰囲気がとても好きでした。


静かな雰囲気の知事公館裏

 今は既になくなってしまった知事公館内のキムクシメムとそこから流れ出た小川が何時頃まで、どこを流れていたのかを調べてみたいと思います。

開拓が始まった頃のキムクシメム

 「森源三邸(知事公館)」でも紹介しましたが、知事公館付近のことがわかる最初の地図は、明治15年に作成された「札幌養蚕場 第一号桑園」という地図です。

札幌養蚕場 第一号桑園(明治15年)


知事公館付近の拡大図
(北海道立文書館・デジタルアーカイブ)

 知事公館周辺の拡大図を見ると、この付近だけでも三か所からメムが湧き出していたようです。アイヌの人たちは、おそらく、この付近一帯をキムクシメムと呼んでいたのではないでしょうか?また、メムから流れ出した川の北側一帯は大きな湿原でした。

キムクシメムから流れ出した川

 森源三が今の知事公館の土地に移り住み始めてから10年ほどたった明治32年に出版された「札幌市街之図」です。


「札幌市街之図」(明治32年)

 「札幌養蚕場 第一号桑園」の地図と比べると、池の形や川の流れがはっきりとわかります。「札幌養蚕場 第一号桑園」が描かれた明治15年頃は、あたり一面湿地でどこが河道かわからなかったのではないでしょうか?

 円山の藤森三郎翁が明治中年の頃の川の姿を、次のように語ったとのことです。(「札幌のアイヌ地名を尋ねて」、山田修三著)
 『当時、街中で三井の川と植物園の川の二つが、主な川であった。三井の川の源は邸内の大きな湧水で、秋味がどんどん上がったのを覚えている。北四条の辺で水流が広くなり、川巾は三、四間位であったか。川底は小砂利で、水の清い事天下一品、植物園の川より水量が多かった。北五条西十六丁目の辺りで、この辺一番の水溜まりとなり、沼のような形であった。それから下流は、鉄道線路の下の辺りで、岸に十尺位の葭(あし)が茂り、水深は四、五尺位はあったろうか。葭で隠れるので、鮭を密漁する人等には良い場所であった。』

北一条通にはみ出た池

 「札幌市街之図」の上に緑色の〇に示した敷地南側の北一条通りに面したところは、池の一部が北一条通りにはみ出ています。これは、印刷の間違いではありません。三井がこの土地を三井倶楽部として購入した時の図面を見ても、池の一部が北一条通りにはみ出しています。

購入時の札幌別邸敷地図
(三井の集会所)

 この図面は、この土地の最初の所有者である森源三の長男・森廣が作成したものです。昭和37年7月25日の北海道新聞の記事「百年のふるさと(22)知事公館」によりますと、『大正年間の道路拡張で、三井倶楽部の建物の正面、北一条通りの真ん中に建っていた「国富在農」碑も敷地内に移設されました』とありますので、この道路工事で飛び出し部分がなくなったようです。

 なお、「大正年間の道路拡張」ですが、大正9年に札幌人者祭典第十区により現在の北1条西20丁目から25丁目までの道路が開削されましたが、大正9年5月19日の北海タイムスの記事「札幌区土木工事」によりますと、北1条西16丁目から19丁目までの道路改修が計画されており、大正9年に道路の拡張が実施されたようです。

池に上ってきた鮭

 明治30年代、森廣は敷地内を流れる小川を利用して小規模ながら鮭の養殖を試みたことがあったそうです。
 また、明治35年、北2条西11丁目に設立された庁立高等女学校の生徒だった一老女が、『私は女学校のころ、羽織はかまで通学しました。森さんのお宅の前を通ると、サケがピシャピシャとはねているものですから、下校途中、はかまをぬぎ捨てて、小川に入り、サケをわしづかみにして、丘にほうり投げたものですよ。』と語っていたそうです。(さっぽろ文庫 3「札幌風物詩」)

川にかかっている橋と付近の道路

 再び「札幌市街之図」に戻りますが、明治32年当時、森邸のキムクシメムから流れ出した川に架かる橋は、北3条西15丁目と北5条西16丁目の二か所(赤色の〇で示したところ)しかありませんでしたので、地図に描かれている道路は人馬が通行できるような状態ではなかったでしょう。この地図には既に道路があるように描かれていますが、実際には未だ開削されてはいなく、この付近の道路が開削されたのは、人家が建ち並び始めた大正5年以降と思われます。

 札幌区史によると、この付近の道路ができたのは明治23年11月と記載されていますが、できたのは幹線道路だけだったようです。明治34年12月19日の北海タイムスの記事「高等女学校敷地買収に関する西田守信氏の談」によると、『(高等女学校建設)予定地(北2条西11丁目)は区の西端にありて、之に通ずる道路とては(当時、北1条西8~9丁目にあった)公立病院の南北と北四条通りあるに過ぎず、北一条より同五条までの四丁目は全く道路なく、若し此の四条間、即ち博物館(現在の植物園)の南北に接して道路を開通せんとすれば、頗(すこぶ)る巨額の費用を要し、区の財政では難しい・・・(省略)』と書かれています。

川の流れた先

 この川は北6条西13丁目付近で植物園から流れてきた川と合流した後、北に向かって流れています。

 明治29年の地形図によりますと、当時の森源三邸を流れ出した川は、博物館(現在の植物園)から流れ出した川と合流した後、鉄道の下をくぐり、さらに博物館から流れ出した別の川、札幌農学校から流れてきた川と合流し、現在の競馬場の北側で琴似川と合流していました。琴似川はこの下流で新川に一部分流し、その後、石狩川に注いでいました。


川の流れた先(明治29年地形図)

川の写真(大正3年)

 森源三邸のキムクシメムから流れ出したと思われる小川の写真が残されています。
 この写真は大正3年に撮影されたものです。森源三の次男で、維新前の北越戦争で亡くなった長岡藩家老、河井継之助の家を継いだ河井茂樹邸です。写された場所は、森源三邸(現在の知事公館)の北隣り、北3条西16丁目です。


北3条西16丁目 河井邸前、大正3年
(「北海道古写真」、北海道大学付属図書館蔵)

 撮影しているところの直ぐ傍に小川が流れ、その向こう側に河井邸が建っており、さらに遠くには山並みが見えています。この写真は、札幌の西側に連なる山並みに向かって写された写真です。特に、写真の左端には特徴のある山が見えています。そして、少しわかりづらいですが、河井邸の左横には白い壁の建物が小さく映っています。

 札幌にお住いの皆さんはよくご存じですが、札幌の市街地からすぐ近くに見える山で、山の形がよくわかるのは、市街地の西側に連なる藻岩山、円山、三角山そして手稲山くらいでしょうか。
 山の形から推定すると、円山か三角山のいずれかでしょう。藻岩山か手稲山にしては、山の形が違います。

 それでは、この写真はどこから撮影された写真でしょう。当時の地図を見ながら、推定してみました。


写真が写された場所と方角
(「札幌市街図」、大正5年)

 地図を見てお判りのように、河井邸の敷地内には森源三邸のキムクシメムから流れ出した川が流れていますが、川の流れは建物の西側を流れており、写真に写っている川は建物の東側に位置しています。河井邸の東側を流れる川と言えば、お隣の北3条西15丁目〈逸見邸〉から流れ出だした川しかありませんので、写真は河井邸の右上に書き込みました黄色の矢印があるあたりから、南西(矢印)の方角に向かって撮影されたのではないでしょうか?

 もし、私の推定が正しいとすれば、写真の左端に写っている山は“円山”ではなさそうです。円山なら建物の陰に隠れて見えないはずですし、写真には全く違う方向に写っています。山の形を見ても、円山とは少し違うように思います。

 しかし、私の推定は一つ大きな問題があります。それは、写真の向きがおかしいということです。私の推定が正しければ、河井邸の建物は向かって左側に写っていなければなりません。ところが、建物は写真の右側に写っています。

 昔の写真は、時々、左右逆の場合があることを思い出し、写真の左右を反転させてみました。


左右反転させた河井邸の写真

 如何でしょうか?上の地図に書き入れた黄色の矢印から撮影されたとおりの写真になりました。写真の右側に写っている山は、山の形と方角から、“三角山”と思われます。


同じ地点から見た現在の三角山

 これらの推定が正しければ、写真に写っている川は、キムクシメムから流れ出した川ではなさそうです。また、写真の向こうに写っている林は、農事講習所(養蚕伝習所)の桑畑でしょう。
 昔のこの付近の風景がわかる写真をこれほど鮮明に見ることができるのは、この写真だけでしょう。

 余談ですが、河井邸の建物の周りを見ますと、こんもりとしたものが多数見られます。これは、何でしょうか?おそらく、牛舎の牛床ではないでしょうか?河井茂樹氏は、森源三邸内で牛乳屋を始めた宇都宮仙太郎の勧めもあって、小さい頃から牛を飼っていましたし、大正3年当時はここで練乳を製造する「札幌酪農園練乳所」を経営していました。

川の変遷

  この後、街の発展に伴い、川の流れは徐々に変わっていきます。

大正5年頃の川の流れ

 大正5年の地形図を見ますと、川の流れが変わると伴に、ところどころに池が取り残されていきます。


大正五年地形図

 三井倶楽部(当時は三井がこの土地を購入したばかり)から流れ出した川は、真っ直ぐ北に向かわず、北3条通り沿いに流れを変えています。さらに、赤い〇で囲ったように、北3条西15丁目、北5条西15丁目、それに北6条西13丁目には、池が取り残されています。これらの池は、昭和の時代まであったそうです。また、この頃になると、明治32年とは異なり、メムから流れ出した川で道路を通行できない状態はなくなっています。

 三井倶楽部のすぐ北側の状況は、昭和3年の「札幌市都市計画内地番入精細図」で、詳しく知ることができます。


「札幌市都市計画内地番入精細図」(昭和3年)

 先ず、キムクシメムからの川の流れが、三井倶楽部を出て直ぐに、北3条通りの道路沿いに流れを変え、さらに西16丁目の道路沿いを北上しています。恐らく、道路工事に伴い流れを変えたものと思われます。

 それまで、キムクシメムからの川が流れていた北3条西16丁目の河井邸跡地には、川の流れた跡が取り残されています。この地には、昭和3年から平成15年まで富樫邸がありましたが、その邸内には池がありました。

 また、その東隣の逸見文綱邸がある北3条西15丁目には、北2条西14丁目の富樫弥惣治邸から流れ出した川が流れていましたが、川の流れが止まり、ここでも池が取り残されました。

逸見文綱邸の池

 知事公館の北隣、北3条西15丁目の逸見文綱邸には大きな池がありました。この土地に最初に住んだのが逸見文綱氏であろうと思いましたが、来道する前年の明治32年に出版された「札幌市街之図」(前掲)を見るとすでに建物が建っていますので、前任の札幌病院長が住んでいたのかもしれません。

 「北海開発事績」(大正10年、高橋理一郎)によりますと、逸見文綱氏は『明治33年に札幌病院長として招かれて来道しました。明治38年には同院を辞して北2条西2丁目に逸見病院を開設、札幌屈指の病院でしたが、大正4年病気のため惜しまれて病院は閉院し、爾来自邸にあって悠々風月を友にしました。(途中省略)夫人沖津氏は会津藩士の娘』と書かれています。


北3条西15丁目の逸見文綱邸
(開道五十年記念北海道拓殖写真帖、大正7年)

 昭和8年に、漢文の随筆「小舫(逸見文綱の雅号)遺稿」が遺族から出版されています。

 同じ町内に住んでいた外務省中近東アフリカ局長や在フィリピン特命全権大使等を務めた田中秀穂氏が、昭和の初め頃のこの池と付近の様子を、次のようにあざやかに描いています。

「水に恵まれた札幌」(さっぽろ文庫69「思い出の札幌」)

 『私が学齢期(大正8年生まれ)に住んでいた北3条西15丁目の家は、三井倶楽部の裏の北3条通りに面して三軒ばかり並んだうちの一軒だが、このまわりにも水は多かった。我が家の裏手には鬱蒼とした木立に囲まれた小さな沼があった。夏には母が水面に突き出た木の枝から鍋を吊り下げて白玉を冷やしたりしていたが、冷蔵庫などはない時代である。私は4歳の時、この沼で近所の子と二人で盥(たらい)を船にして遊んだことをよく覚えており、誰が撮ったのかその頃では珍しいスナップ写真が残っている。そこで、その時の夏の日差しに映える木々の緑と、盥の縁にゆらめく沼の水が今も鮮明に私の眼底にやきついている。

 北3条通りと交差して西15丁目の通りが北に向かっているが、これはわが家の西側になり(西15丁目の西側の道路は、西16丁目通りの間違い)、この両側には小川が流れていた。

 東側の家々の前を走るのが幅一間ばかりの川で、水源はわからない(水源は北2条西14丁目の富樫彌惣治邸)が子供たちはここでよく遊んでいた。サルカニ(ざりがに)やトンギョ(棘魚)を獲るのが主な目的であって、小さなたも網ですくったり、竹を網につけたものに追いこむのであるが、皆がいると信じていたヤマベや八つ目鰻はとれたことがなかった。その代わり、たしかゴタッペといった訳のわからぬ小魚がいたように思う。その頃は今のように人々が川に物を捨てる習慣はないので、水はきれいで子供が裸足で入っても大丈夫なのだが、万一を思って下駄を履くように親から言われていた。子供たちが網などを持っていたことを考えると、川遊びは普通のことであったのだろう。

 この通り(西16丁目通り)の西側の川は三井倶楽部の中の池が水源で、堀の下の水門をくぐって流れ出し、発寒川につながると言われていた。川幅も東側の川よりも広く深さもあった。晩秋のある早朝、戸外が騒がしいので子供の私も飛び出してみると、家々から走りでた人たちがこの川のそばに群がっている。そして川の中は産卵のため、三井倶楽部の池を目指して遡行してきた鮭でいっぱいになっていた。』

 ブログ「1950年に生まれて」によれば、ブログの筆者が住んでいた北3条の家の2軒隣に、当時で80歳くらいの「ヘンミさんというおばあちゃん」が住んでいたそうです。おそらく、そのおばあちゃんは逸見文綱氏の夫人沖津氏であろうと思われます。

 また、『知事公館は、おばあちゃんの若いころには、石狩川の支流の一つが流れていて、ここまで鮭が産卵のために上がってきて、川面が見えないくらいぎっしりと鮭が密集し、足でぽんと掬うと、鮭が何匹か掬いとれた、という事を何度か聞いたことがあった』とのことです。

 現在、逸見文綱邸があったところには、日本たばこ産業㈱北海道支店の建物が建っていますが、昭和36年の札幌市街図を見ると前身の日本専売公社札幌札幌出張所は北3条西17丁目にありますので、この土地に移転してきたのは昭和36年以降と思われます。

川はいつまで流れていたのか?

 現在はもちろん、私が小さい頃には、既に知事公館から流れ出している川はありませんでした。それでは、何年頃まで知事公館から流れ出した川があったのか、昔の地図などで調べてみたいと思います。

札幌市全圖(大正14年)

 はじめに、大正14年の「札幌市全圖」では、知事公館から北に向かって川が流れています。


札幌市全圖(大正14年)

新しい札幌市の地図(昭和6年)

 続いて、昭和6年の「新しい札幌市の地図」によると、川は黄色のい矢印の先の北5条西16丁目あたりから流れ出しています。もはや、知事公館(当時は、三井倶楽部)からの流れはありません。


新しい札幌市の地図(昭和6年)

昭和10年地形図

 昭和10年の地形図では、川は赤い〇で示した北6条西13丁目にあった池から流れ始めています。もはや、植物園から流れてきた川も合流していません。なお、三井倶楽部の北隣の北3条西16丁目(元逸見文綱邸があったところ)には、未だ池が残っています。


昭和10年地形図

昭和25年地形図

 さらに、昭和25年の地形図では、昭和10年と同様に、北6条西13丁目にあった池から流れ出ています。しかし、三井倶楽部の北隣の北3条西16丁目には、もはや池も残っておりません。


昭和25年地形図

 現在は、昭和25年の地形図にあった川の流れも、池も既にありません。ただし、近所の人の話では、昭和30年代頃まで、知事公館からどぶ川のような小川が流れ出ていたとのことです。

涸れてしまったキムクシメム

 知事公館内のキムクシメムは、既に涸れてしまいました。現在、知事公館の北側にある公園内には池があり、小川が流れていますが、水はポンプで循環しているとのことです。


知事公館の北側にある公園を流れる小川(平成23年7月

 このメムが何時頃涸れてしまったのか調べてみましたが、残念ながら私にはわかりませんでした。

 因みに、偕楽園にあったメムは、札幌駅の工事が影響したのか、昭和29年に涸れてしまいました。(「枯れたメムの水、札幌駅の工事で」、北海道新聞、昭和29年7月21日)
 また、すぐ近くにある植物園の幽庭湖は、付近のビル建設ラッシュのためか、昭和29年頃に涸れてしまいました。(「幽庭湖・水枯れ防止に大工事」、北海道新聞、昭和39年7月2日)
 なお、知事公館の北隣、北3条西16丁目にあった富樫邸の池は、地下鉄東西線の工事が進められていたころ(昭和48年頃か?)に涸れてしまったとのことです。

静かな知事公館の裏手

 私が小さい頃、知事公館北側の北3条通りには、大きな木が並木の様に何本も立っており、鬱蒼とした森のようでした。

 俳人の寺田京子氏が、知事公館裏手の静かな佇まいを次のように書いています。

「さっぽろ散歩④旧三井クラブ」(北海道新聞、昭和31年6月8日)

 散歩道でなつかしいのは、旧三井クラブあたり。二町四方、だだっぴろい邸内の雄大な風情は知る由もないけれど、風にそよぐ若葉に心かたむけながら裏道に出れば、ここは幅広い一本道。お役人や会社員、そして数多い人々の喜怒哀楽が底にこもってしまったような真空地帯。ひっそり閑と落ち着きかえった午後の日差しの下には、犬の子一匹通らない。この静けさは何だろう。かといって、無表情ではない、乾いてもぬれてもいない道の表情。ものを考える道なのかもしれない。

 視線の向こうにはみずみずしい手稲の“青の季節”がある。いつか、そう・・・おかっぱ頭のころからながめたたたずまいだ。邸内の泉からはしり出た水はヘイをぬけて、透明な流れとなり、石で築かれた川三尺へ流れ込む。木がくれの陽の光は黒と白との水玉模様を投げ、おかっぱ頭は石の下の“ざりがに”を探すのだったけれど、つるりと石ゴケがすべるから、少女たちはお腹までもぬらしてしまう。

 この流れは鈴のように音をたてるが、さてどこまで流れつづいていたものか。ただ覚えているのは川ぞいの家の一軒一軒に橋がかかっていて、渡ればかたこととたのしい音がしたこと、しかしそれも昔のこと。いまは半丁ほどの暗いドブ川がよどみ、すっかり埋め立てられている。

 時のうつろいは三井クラブから駐留軍宿舎、知事公宅と転じたが、やはり樹々は緑。いつまでもあの森は失くたいものと思うまでもなく、文化財保護委員会が動き出したと新聞がしらせてくれた。森のどこかでカッコウが鳴く。ふりむいた路傍にどっしりと水色の大きなチリ箱が三つ直立していた。

 郭公の声のわかさの芥箱

静かな旧三井クラブ裏手
(北海道新聞、1956年6月8日) 

最後に

 最後に、昭和のはじめ頃の三井倶楽部(現知事公館)周辺の様子がよくわかる新聞記事をご紹介します。

郊外繁盛記、桑園方面(その8)将来は駅が中心(北海タイムス、昭和2年9月14日)

 札沼線の実現はこの数年間にはものになるものと思われるが、桑園駅は之が連絡駅となることも杞憂の事であれば、駅を中心としての発展は想像に難くない。
 それに、札幌電気軌道の施設も余り遠からざる将来に於いて実現を見ることとなろうから、其の際は桑園の西部の発展も著しいものがあろう。

 現在の所では、電車の終点(当時の終点は北5条西20丁目にあった「二中前」停留所)付近は何と言ってもまだ寂しい。十七丁目通から二十丁目迄、電車の両側は家屋が散在して居るばかりなので、終点から電車に乗り込む客も至って少ない。何れ近いうちには終点か、或いは途中から南一条線に連絡されるであろう。そうなると、またまた発展区域が現出されようというものだ。

 庁立高女が北一条十八、九丁目に移転する事に決定しているが、現敷地の売却が思うようにはかどらぬ為に、其の実現に難色があるが、中等学校改築〇を昨年の議会で決議しているから、移転は確実である。そうなると、この土地が住宅地として分譲されよう。従って、此の辺も明るくなろう。

 植物園と二中とに挟まれている北三条通は普通の十一間道路よりは広く、両側は住宅が建込んでいて、樹木も多く、閑静である。三井倶楽部から流れ出る清水は桑園中部を貫流して居るが、十月頃からあきあじが上るなど原始の趣きを存し、住み心地が良い。此の中心に公設市場(北4条西16丁目にあった桑園市場)ありて、物資を供給している。

 三井倶楽部は、桑園では特記さるべき所である。やんごとない方々が来札されると、必ず御旅館にあてられる。境内には原始林あり、丘あり、池ありて、景趣に富んでいる。ここはもと養蚕の事務所があった所で、其の後、森源蔵(正しくは、森源三)氏の所有となり、次いで、三井のものとなったものである。

 桑園の将来は刮目(かつもく=目をこすってよく見ること)して見るべきものがあろうが、何といっても駅界隈は湿地である。是を乾燥地にせねばならぬ。それには、琴似川の改修も必要であろう。下水道を完備する事も必要であろうが、それよりも根本的なのものは樽川に出る新川を深く掘り下げる必要がある。桑園住民は之に留意するを〇する。

 かつて、北星女学校の移転説があり、敷地の決定を見ない時の事である。去る人が之を桑園にもって来ようとし、学校当局に勧説(かんぜい=ある行為をするように説くこと)した所、あの地は湿地であるを遺憾とする旨を答えたそうである。

 なお、上記の文中にある「北一条西十八、九丁目に移転予定の庁立高女(北海道庁立札幌高等女学校)」ですが、当時は現在の大通高校がある北2条西11丁目にありましたが、札幌養蚕講習所が廃止された跡地の北1~2条西18~19丁目に移転してくることはありませんでした。また、「北星女学校の移転説」についても、現在の南4条西17丁目から桑園へ移転することはありませんでした。

桑園地区の航空写真

 上記新聞の4年後の昭和6年に撮影された桑園地区の航空写真です。
 当然なことですが、現在とは大きく異なり、昔は畑や樹木が豊かな桑園でした。

桑園地区の航空写真、昭和6年
(札幌市公文書館)


桑園地区の航空写真(昭和6年)の説明

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