小川直吉と開拓地蔵
西18丁目駅の近くで、その昔、恵まれない人のために尽くした小川直吉という人と札幌開拓地蔵尊のことを、つい最近になって知りました。
大通西19丁目にある老人ホーム長生園の正門横には「小川直吉翁頌徳碑」の石碑があり、昭和31年までは「開拓地蔵堂」があったなど、小川直吉という人も開拓地蔵尊も、大通西19丁目に所縁があるようです。
現在は、長生園をはじめ、札幌市の保健所や社会福祉センターがありますが、私が記憶していることは長生園ができてから以降のことなので、昔はどのようなところであったのか、開拓時代のことから調べてみました。
むかしの大通西19丁目
現在の桑園地区および南1条より北側の西9丁目付近から西20丁目あたりまでの地域一帯は、明治8年に開拓使の依頼により、庄内藩(今の山形県)の元士族を招いて、桑畑とするために開墾してもらったのが始まりです。
避病院の設置
「札幌区史」(札幌区役所、明治44年7月)によりますと、『コレラ病の流行は明治10年に始まる』とあり、手稲村と円山村に隔離病舎を設けました。この年の西南戦争では、コレラに感染して多くの屯田兵が亡くなり、「西郷病」とも呼ばれたそうです。
その2年後の明治12年にもコレラが流行し、8月、円山村内に避病院を設置しました。
明治時代の中頃までは札幌市街は西8丁目あたりまでで、地図にもそれより以西は描かれてないものが多く、避病院の位置を確認できる地図はありませんが、明治32年の「札幌市街之図」に避病院を見ることができます。「札幌区史」に記載されている『手稲村から円山に移築された避病院』とは、札幌と円山村の村界で、当時この付近の唯一の道路であった銭函道(現南一条通)沿いの大通西19丁目にあった避病院
「札幌市街之図」(自治堂、明治32年)
この2年前の明治29年の地形図を見ますと、避病院があった場所は空白のままで何も描かれておりませんが、空白の形状から、ここに避病院があったことが推定されます。
明治29年地形図
避病院の敷地の形状についてはこの後、詳しくお伝えします。
上でご紹介しました明治29年の「地形図」も明治32年の「札幌市街之図」にも、避病院の周辺に現在のような碁盤の目状の道路が描かれていますが、この付近に街路ができたのは大正時代の中頃で、この地図が描かれた明治時代には南一条通(銭箱道)と北一条通を除き、街路はありませんでした。
明治中頃の避病院に関する新聞記事を読みますと、「北一条西十丁目の避病院」(北海道毎日新聞、明治25年10月28日)、「円山村に設置有りし避病院」(北海道毎日新聞、明治28年7月27日)、「南一条西十六丁目にある避病院」(北海道毎日新聞、明治30年9月1日)などのように、避病院が頻繁に移転したかのようですが、避病院が現在の南1条~大通西19丁目以外の場所に移転したことはないようです。
明治34年7月9日になると、避病院の敷地と建物が、15年間の期限付きで北海道庁から札幌区に貸与されました。(北海道毎日新聞、明治34年7月25日「隔離舎敷地許可」)
避病院から円山病院へ
明治42年8月24日、大通西19丁目の避病院があった土地を使って、「円山病院」が落成します。円山病院もそれまであった避病院と同様に伝染病の病院でした。(北海タイムス、明治43年8月30日「円山病院(上)」)
円山病院
「札幌区全図」(明治43年5月)
明治43年5月の「札幌区全図」を見ると、色が薄くてわかりづらいのですが、円山病院の北側の敷地の一部(赤丸で示したところ)が西18丁目に少しはみ出しているとともに、東側の敷地境界が何故か斜めになっています。昔の札幌にしては、不思議な形の敷地です。敷地に沿って川でもない限り、通常は正方形か長方形でしょう。
行旅病人収容所の設置
明治44年4月13日の北海タイムスの記事「奇特の人々」には、『当区在住外国人北四条西一丁目のジャンソン氏は、南一条西十九丁目の行旅病院へ毎週一度づつ往き、入院患者に対し種々の送り物をなしては慰め居るが、本月一日、らい病患者阿部初蔵を東京府下目黒病院へ入院せしめ呉れ、又木村金次郎死亡の祭には一切の費用を弁じ与えたりと、又北辰教会の清水牧師も毎週来院、種々有益の説話を為し、何かと斡旋の労を取り居ると云う奇特の人々かな』とあります。
この報道の5日後の4月18日の記事「行旅病人収容所」には、『札幌市の経営監督し居る円山村の札幌行旅病人収容所における収容患者数を聞くに、昨年四月より、本年三月に至る迄、百三十三人・・・』とありますので、
昭和3年12月15日の北海タイムスの記事「札幌市の社会事業巡り(三)、札幌診療所」によりますと、明治42年8月に円山病院ができた後、かつて避病院の建物として使われた明治42年築の建物を利用して、行旅病人などを救護するための札幌救護所
大正13年4月20日の北海タイムスの記事「行路病者慰安」によりますと、札幌救護所の入所者を対象に慰安会が催されています。
『圓山の「札幌救護所」では目下、八十名に余る行路病者を収容しているが、札幌市役所では之が慰安として、彼等憐民の爲、慰安会を開催する由にて、来る二十四日頃、救護所付近の広場にて行う事になっているが、催しとしては、昼は浪花節、講演会、夜は精神作興に関する活動写真があるそうだ。』
「円山病院」という名前もそうですが、ここは札幌区のはずれであり、円山村ではありません。当時の人たちは円山病院とその関連施設は円山村にあると思っていたようです。
札幌消毒所の設置
民間の発起によって大通西19丁目に建設中だった札幌消毒所が完成し、大正5年9月26日11時から豊平館で落成式が開催されました。なお、札幌消毒所は、その設立を見たとのことです。(北海タイムス「消毒所の落成」、大正5年9月26日)
この頃の円山病院付近の地図をご覧ください。
円山病院付近(大正5年地形図)
円山病院の大きな建物の直ぐ北側は、蚕業講習所の桑畑でした。南側には塀の外に、3棟の建物が建っていますが、最も大きい建物が札幌救護所ではないかと思われます。また、この3棟の一番南側の建物は、札幌消毒所であろうと思われます。
札幌救護所から札幌診療所へ
「札幌救護所」が改築され、昭和3年10月25日に「札幌診療所」となりました。
『札幌市が大通り西十九丁目に三万円の費用を投じて改築した市立救療所は、既に建物の竣工を見、其の後内部の設備のため開所が遅延して居ったが、愈々其の設備も完成したので、来る二十五日から開所するに決した。
それと同時に、実費診療もなすこととなり、診療を受けんとする者は、市役所社会課へ申し出て診察券を受けた上に同所へ行けばよいのであるが、診療時間は日曜、大晦日を除き、毎日午前九時から午後三時迄、普通薬価は一日分僅かに十銭、入院料は薬価、寝具貸料、寝台代、食料を込めて、これ又一円二十銭という僅少の費用をとるのみで、医薬の資に困る人には普通開業医にかかるよりも破格の取り扱いを受けるわけである。』(北海タイムス、「貧しき病者に市立救療所」、昭和3年10月23日)
昭和3年12月15日の北海タイムスの記事「札幌市の社会事業巡り(三)、札幌診療所」には、札幌診療所が設置されるに至った背景が詳しく書かれています。
『今でこそ救療所は診療所と改称されて、堂々たる新築の二階建てとなって、大通西十九丁目に異彩を放っているが、今年此の改築がある前の救療所と称したものは、とてもみじめな話にも何にもならぬ建物で、如何に行旅病人を収容するものとはいえ、いやしくも十一州の首都たる札幌市がなして居る社会事業の施設としては、誠に恥ずかしいものであった。
建物といえば、明治四十二年末のバラックの九十九坪、病室八つ、畳数七十五枚という貧弱なもので、― 色々手をかけて見たがどうにもならぬ ― これに少ない時で四十四名、多い時は七十名からの病人が収容されて居ったとは、思っただけでも悲惨なものであったのである。
一体この舎屋は明治四十二年当時、札幌に伝染病が蔓延し、札幌病院の隔離室だけではとても収容できず、急遽このバラックを建て伝染病患者を収容したその遺物である。それが其の後、付近に伝染病者を収容する円山病院が出来、不用となったので、それでは区内に居る救護を要する患者や身寄りのない行旅病人を入れる救護所にでも当て様ということになり、小川直吉氏に経営を全部請け負わせ、医師や薬剤師は円山病院から兼務して十数年やって来たが、経営が請負のためか、とかく種々な風評が起こるので、現在市の秘書課長の伊澤君が庶務課長として赴任して来て、これを見て何とかせずばなるまいと、先手初めに舎屋も年々修繕し、薄暗いからとてそら窓を切るやら、それから押入れを作るやら、色々やったが、土台建物そのものが駄目なので、体裁も内容も仲々よくはなって行かなかった。
一方、世間の批判も考慮に入れて、大正十四年からは専任の事務員を置いて、事務を処理させ、医師も専任の人を置き、医療機械・器具もそなえ付けて何とかしては来たが、市会議員中にもアノ建物では・・・と改築のことを主張する人が出て来たので、伊澤課長は渡りに船と早速計画を樹て、昭和二年度の予算市会に公費三万円、金は低利資金からという改築案を出した處、市会でも大いに賛成を得て、事はスラスラと運び、市当局者も始めて安堵の胸をなで降し、茲
円山病院と札幌市立診療所の写真です。
(写真)円山病院(右)と札幌市立診療所(左)、撮影時期不明
(北海道大学付属図書館蔵)
昭和3年の「札幌市都市計画内地番入精細図」を見ますと、円山病院の敷地は西18丁目にはみ出た部分がなくなって、西19丁目の道路が通れるようになっています。
「札幌市都市計画内地番入精細図」(昭和3年)
さらに、昭和10年の地形図を見ますと、「札幌診療所」が建てられた位置がわかります。
昭和10年地形図
また、建築されたばかりの「札幌市立診療所」が詳しくわかる写真も残っています。
(写真)札幌市立診療所
(北海道新聞)
地図と写真を見てお分かりのように、札幌市立診療所の建物は現在の「南大通り」に面して建てられ、門と入口も現在の「南大通り」側にあり、門の前には道路もできているようです。
先にご紹介した昭和3年の「札幌市都市計画内地番入精細図」では、「西十九丁目通り」は開通しているものの、「南大通り」は未だ開通していませんが、昭和3年2月28日の北海タイムスの記事「札幌市予算贅(セイ)見(五)」を見ますと、『本年の(土木費に関する)事業としては、(途中略)、南大通線西十九丁目西二十丁目間』とありますので、札幌市立診療所ができた昭和3年に、「南大通り」も開通したものと思われます。
ただし、この後ご紹介します昭和6年発行の「新しい札幌市の地図」のように、昭和3年以降も南大通りが開通していない地図が複数見られます。
円山病院周辺の発展
昭和4年の「札幌市職業別明細図」を見ますと、南大通りより南側のかつて避病院があった跡地の外側には、大通西18丁目に住んでいた藪堯祐の子息の藪勉邸や宮沢荒物店などができています。一方、かつて避病院があった土地は、札幌市の福祉厚生施設として最近までその役割を果たします。
「札幌市職業別明細図」(昭和4年)
この年、西二十丁目通りの南大通りから北側に西20丁目線の電車が開通しました。「円山百年史」によると、それに伴い西二十丁目通りの道路幅員がそれまでの二間から現在の十二間に広がったそうです。なお、南一条から南大通りまでは、大正12年に円山線の電車が開通していましたので、既に道路の幅員は広かったものと思われます。
昭和11年には、小川直吉ほか周辺住民から札幌消毒所移転の陳情が出ています。以下、昭和11年12月22日の北海タイムス「札幌消毒所移転」の記事です。
『札幌市大通西十九丁目に所在する札幌市消毒所は、創設当時は人家も希薄で、斯様
昭和6年発行の「新しい札幌市の地図」で消毒所の凡その位置(黄色い矢印の先)が分かります。それは、かつての避病院の敷地の最も南側にあり、円山村への入口にある市電西20丁目停留所のすぐ近くで、人目に立つ位置にありました。
「新しい札幌市の地図」(昭和6年)
円山病院の右隣(大通西18丁目)に「市立施療所」という施設(緑色の矢印の先)が記載されていますが、この付近は藪合名会社が建設した賃貸住宅があったあたりですので、賃貸住宅や付近の住人のための診療所ではないかと思われます。
市立診療所から健民病院へ
昭和19年10月21日の北海道新聞の記事「市立診療所健民病院に」によりますと、札幌市立健民病院の名称を「札幌市立健民病院」に改めました。
円山病院から厚生病院へ
昭和23年9月28日の北海道新聞の記事「一日から厚生病院開く」によりますと、『札幌市では十日から市立円山病院内に一般病傷者の診療を目的として市立厚生病院を開設する』とあり、これ以降しばらくの間、円山病院と厚生病院の二つの病院が開院することになりました。
西保健所の開設
昭和27年7月10日、旧札幌市立診療所、すなはち健民病院の建物を利用して、「西保健所」が開設されました。(北海道新聞、昭和27年7月11日「きょう店開き、西保健所開所式行う」)
西保健所=昭和4年に建てられた旧札幌市立診療所の建物
(札幌市公文書館)
昭和31年2月22日の北海道新聞の記事「面目を一新する市立各病院」によりますと、円山病院と棟続きの厚生病院の大々的な増改築計画と、両病院のほか西保健所、消毒所など周辺の市関係保健衛生行政部門も吸収した円山地区での総合医療センターを建設案の検討が進められていると報道されましたが、どこまで実現を迎えたかは不明です
昭和32年10月2日の北海道新聞の記事「消毒所と消防署、二つの施設できあがる」によりますと、消毒所が建て替えられ、『これまでのよりははるかに広くなっており、また、ホルマリンガス消毒と蒸気消毒の二つの設備を備え、伝染病患者の汚染物消毒に一役買わせることになった』とありますので、昭和11年に小川直吉らによる札幌消毒所移転に関する陳情は採用されなかったようです。
建て替えられた札幌市の消毒所
(北海道新聞)
厚生病院から長生園へ
昭和35年10月、厚生病院の跡地に養護老人ホーム「長生園」が開設されました。(北海道新聞、昭和35年10月11日「長生園開園式」)
札幌長生園(昭和36年11月)
(札幌市公文書館)
これに先立つ9月29日の北海道新聞の記事「長生園新築なって引っ越し」によると、『長生園は市立厚生病院跡に新築された・・・(途中省略)・・・新しい建物は二千七十六平方メートルで、食堂、炊事場、ふろ場、娯楽室、収容室が完備され、外観もなかなかスマート。収容室は二十三部屋あり、各部屋十四畳敷き』とのことですが、この時にはすでに円山病院はなく、厚生病院だけが存続していたようです。
昭和39年5月8日の北海道新聞の記事「入院患者がけが、ランマの窓落ち」によりますと、市立病院分院厚生病院(大通西十九)で、風でランマ窓のガラスが落ちて、入院中の患者がけがをした事故があったとのことですが、同病院は老朽が激しく、数年先に閉鎖する計画があるため、市は意識的に補修を怠っているのではないかとの意見が出たそうです。
昭和31年2月22日の報道にあった円山、厚生両病院の増改築は、予算の都合で実現できなかったようです。また、この報道以降は、厚生病院に関する記事は見当たりませんので、厚生病院は記事にあるように予定どおり閉鎖されたようです。
昭和40年1月29日の北海道新聞の記事「西保健所が移転、来月一日からに業務開始」によりますと、新たに円山北町に建築中だった西保健所の新庁舎が完成し、2月1日からの業務開始に向けて、移転しました。
円山病院周辺の敷地境界の跡
少し寄り道をしてみましょう。
円山病院の敷地境界のことですが、昭和23年に米軍によって撮影された空中写真をよく見ますと、円山病院の敷地内とその南側で、かつての敷地境界の跡を見ることができます。
円山病院の敷地境界の跡
(米軍による空中写真、1948年4月22日)
それにしても、湾曲した斜めの線といい不思議な形の敷地境界です。避病院がこの地にできた明治の初め頃には、川が流れていたかあるいは川が流れた跡だったのではないかと思いました。
敷地境界の詳細
下図は昭和2年の「札幌市地番入明細全図」ですが、避病院の斜めの敷地境界が「北海道地方官有地」と書かれています。
「札幌市地番入明細全図」、昭和2年
(北海道大学付属図書館蔵)
円山病院周辺の川の跡
もう一つ、国土地理院の「治水地形分類図」をご覧ください。
円山病院周辺の川の跡
「治水地形分類図」(国土地理院)
青い線の縞模様が川の流れた跡です。また、赤い三角形が円山病院の敷地境界です。両者は完全に一致しておりませんが、茶色の等高線と比較しますと、川はもう少し右側を流れていたのではないでしょうか?川の流れた方向と敷地境界の斜めの線の傾き具合もほぼ一致していますので、敷地境界の斜めの線は川が流れた跡でしょう。
この付近には、明治の頃、札幌区と円山村の境を流れていた川がありましたが、高畑宣一の「旧琴似川流域の竪穴住居跡分布図」など昔の資料を見ますと、円山村界を流れる川はもう少し西側(左側)を流れていたようですし、上記「治水地形分類図」の川の流れた跡を下流側に辿ると、現在の桑園駅あたりまで直線的に流れていたようですので、円山村界を流れていた川とは別の川でしょう。
明治の初めころの円山病院付近の様子
円山村の開拓に尽力した上田萬平氏が、明治43年1月3日の北海タイムスの記事「四十年前の札幌、上田萬平氏の談」で、明治の初めころの円山病院付近の様子を次のように語っています。
今では何処へ行ったとなく影もなくなったが、私共の来た当時は熊や狼は沢山ゴロツイて居りまして、殊に鹿と狐は常日(いつも)二、三百位の大行列で歩いたものであります。
今の札幌区の隔離病舎の在る所
今なら、鹿や狐を捕りますれば随分金儲けにもなりますが、当時は皮を採っても売り場がない為に、鹿も狐も捕獲するものがない・・・(後略)
円山病院ができたこの土地は、昔から『乾燥しており、狐の住家』だった。ということは、斜めの敷地境界の外側(東側)は、湿地であったということになります。
「札幌扇状地内の泉地」(「札幌市史 産業経済編」、1958年)には、北1条西18丁目あたりに「キムウンクシユメム(上の泉池)」という池があったことが書かれています。
現在の敷地境界跡
現在も敷地境界の跡を見ることができます。
上の空中写真に示しました一番下の赤色の矢印の先をご覧ください。西19丁目通りからの細い道路が突然なくなっているところですが、現在は西20丁目まで道路が通っています。しかし、道路の幅が途中で急に狭くなっており、この狭くなったところがかつての円山病院の敷地境界と思われます。
円山病院の敷地境界の跡(Googleマップ)
今も残る敷地境界の跡(南1条西19丁目)
恵まれない人のために尽くした小川直吉
それでは、ここまでに何度か名前が出てきた小川直吉さんをご紹介します。
小川直吉は、安政4年(1857年)に新潟県で生まれました。(北海タイムス「やっと安住の地得る故小川直吉さんの頌徳碑」、昭和40年5月7日)
明治15年4月、25歳で新潟(越後)から札幌にやってきました。(「小川直吉翁頌徳碑」さっぽろ文庫45 札幌の碑)
土木建築請負業を営みながら、身寄りのない人や病人を自宅に引き取り、私財を投じて就職の世話をするなど、恵まれない人のために尽くしました。(「小川直吉翁頌徳碑」(さっぽろ文庫45 札幌の碑)
明治29年2月23日の北海道毎日新聞の記事「区内の救護人員」によると、『札幌区役所の取り扱いに係る行病人、棄児、遺児等は目下小川直吉なる者に託し、救護を為さしめ置ける由なるか、右救護を受け居るもの総計十二名ありと』と報道されており、札幌区役所からも公に認められた救護人であったようです。
当時の小川直吉の住所ですが、明治44年10月の「札幌商工人名録」によると、「大通東一丁目」と記載されています。その後、大正11年5月の「札幌市制紀念人名案内図」の裏面にある住所一覧によると、「大通西十九丁目」となっていますが、大正12年8月31日、北日本商工社発行の「大正12年版北海道職業別電話名簿」には、「(電話番号)一二三〇 小川直吉 南一西一ノ九ノ一
一方、明治44年5月3日の北海タイムスの新聞記事「敷地使用認」によりますと、『去る三月二十七日付、札幌区役所の願に係る伝染病患者隔離病舎敷地内に、管理人家屋建設の爲め、土地八百七十坪の使用の件に、左の条件付きにて今回その筋より許可されたり。(以下省略)』とありますので、明治45年頃には現在の札幌市医師会館があるあたりに家を建て、行旅病人収容所の管理人となった模様ですが、土木建築等請負業も継続していたようです。
真言宗智山派 双子山地蔵寺のホームページ、「札幌開拓延命地蔵尊」によりますと、明治4年に富山県から入植した人たちが、今の南1条西5丁目あたりを流れていた新川の川岸に開拓地蔵尊を建立しましたが、札幌の市街地の拡大とともに「開拓地蔵」は西へ西へと移動していきました。大正13年頃、小川直吉がお地蔵様のために大通西19丁目の自分が住んでいるところに小さなお堂を建て、付近の住民に呼びかけてお祀りすることになったとのことです。
昭和10年、当時の中沢年次郎円山病院長や木下成太郎弁護士が中心となり、小川直吉ゆかりの大通西19丁目の開拓地蔵堂境内に、小川直吉の偉業をたたえて、「小川直吉翁頌徳碑」が建てられました。
昭和10年9月26日の北海タイムスの記事「小川翁の徳、碑面に輝く」によりますと、9月24日に除幕式が行われました。
『小川直吉頌徳碑除幕式は二十四日午後十時から、翁と因縁浅からぬ札幌開拓地蔵尊堂の境内に於いて挙行された。
来賓二百余名の臨席、発起人代表中沢市立円山病院長の挨拶あり、愛孫すみ子さん(七つ)の手によって除幕され、伊夜日子神社社堂〇主となり式典を行い、木下道会議員、町内代表藪市会議員、富田廿七衛生組合代表、奉賛会代表原敬造氏、友人上田万平氏、天野謙次郎氏、新潟県人代表小川冷光氏、福島市会議員の祝辞あり、石工苅部氏感謝状を贈呈し、小川直吉翁の挨拶あり、式を閉じ、祝宴を開き、盛会であった。
翁は新潟県生まれ、明治十五年来札、人情に厚く、義侠心に富み、夙に
それで、恩顧を受けた中沢氏以下十三氏発起、五十余氏の出資に依って今回の美挙を見たものである。
翁は七十九歳、妻かつ子さんは七十三歳、今尚矍鑠
小川直吉翁頌徳碑
碑は高さ2.2メートル、幅70センチの仙台石で、題字は当時の海軍中将東郷吉太郎の書。背面には直吉の遺徳をしのぶ碑文と、碑の建立発起人12名の名前が刻まれており、「他、開拓地蔵堂世話人一同」と加えられています。(「小川直吉翁頌徳碑」さっぽろ文庫45 札幌の碑)
昭和22年、92歳で亡くなっています。(北海道新聞「盛大に移設記念式」、昭和40年5月16日)
昭和40年5月15日、「小川直吉翁頌徳碑」は、長い間見捨てられた格好で旧西保健所の跡地にありましたが、長生園内の東側に移築・再建されました。(北海タイムス「やっと安住の地得る故小川直吉さんの頌徳碑」、昭和40年5月7日)
昭和64年3月、「小川直吉翁頌徳碑」は、長生園の改築工事によって少し移動し、同園正面の右手に向きを変えられました。(「小川直吉翁頌徳碑」さっぽろ文庫45 札幌の碑)
札幌開拓地蔵尊と小川直吉
かつて西19丁目にあった「開拓地蔵尊」の数奇な運命については、「真言宗智山派 双子山地蔵寺」のホームページで詳しく知ることができます。
札幌開拓地蔵=札幌市大通西19丁目
(北海道新聞、昭和27年6月26日)
先ず初めに、大正13年5月23日の北海タイムスの記事「首なし地蔵の首見つかる」を紹介します。
首なし地蔵の首見つかる(北海タイムス、大正13年5月23日)
札幌市といっても、そこは町端れの西十九丁目、通一本隔てて円山村に接する行路病人収容所のほとりに見苦しい首なし地蔵の祠がある。俗に「首なし地蔵」と称して、誰一人顧みる者もなく、長い間雨風に晒
ところが、円山瑞龍寺の住職、三浦承天師が、こりゃ何か由来のありそうな地蔵さんだと云うので、仔細に調べてみると、「明治四年広島県の住人某の作」と〇銘があり、而
そして、両日とも浪花節や茶番活動写真などの余興で景気を添えると云うので、付近の住民が準備に、昨日あたり大活動していた。
西5丁目を流れていた新川
(札幌市公文書館)
もう一つ、当時、大通西十五丁目に住んでいた北海タイムスの記者が書いた「札幌開拓地蔵尊」(昭和2年8月28日)という記事です。
札幌開拓地蔵尊(北海タイムス、昭和2年8月28日)
越後の出身で、昔、北海道にあらくれ男の横行する当時から、肝ッ玉の太い請負師として練り上げて来ただけに、義に堅い侠客肌なところがある。そして生一本の真ッ正直な爺さんだ。「おとつァさ、一つ頼む」といへば、事の善悪は第二段として必ず「諾」と一言、一応は引き受けて呉れる。まことに頼母しい親分の観があるので、人生のあら波に漕ぎ疲れた人、難破した人々が、いつも二人や三人は居候に来ていた。それを爺さん、厭な顔一つせず、よく世話してやるので、頼寄って来る人は益々多くなるといった状態で、遂には行旅病人引受所の主人となり、今日に至っている。
この行旅病人の世話は頼まれて出来る職業ではない。爺さんのような、心から人の世話好きな人であって初めて出来るのだ。この一点からしても、爺さんは社会の恩人だ。何
この小川の爺さんが「イヤ、不思議なことがあるものだ」と、首を傾けて私の許へ来たことがある。三年ばかり前の話だ。どうしたと聞くと、実は、この札幌に取っては粗末に出来ない札幌開拓地蔵尊が、何処で何したものか、首を失くして鉱山監督局の前にほったらかしてあるのを見つけて、自分は勿体ないと思い、自分の家の庭へ持って来て置いたところが、こんどその首が南一条の新川の中から泥だらけになって上がって来たというのであった。
考えて見ると、この地蔵さんは、明治の初め頃から札幌にあった。最初は南一条の新川の畔にあった。それが西が開けて来るに随って、西八丁目に移され、更に十一丁目に移され、十八丁目に移されて、段々西に下って来て、今、鉱物署
兎に角、首が出たのは不思議な因縁で、こんなお芽出たいことはないから、早速、首をつけてやって、盛大な地蔵供養をやりたいというのであった。素より私も賛成した。爺さんはそれから早速、首をつけてやると同時に、小さいみ堂を建立した。そうしてその秋から盛大な祭典を催したのである。
いま二十丁目(十九丁目の間違い)に在り、通り一本を隔てて円山開拓記念碑と相対している地蔵堂が、即ちそれであって、この地蔵尊に伺いを立てれば札幌の繁昌史は大体分かる。
この記事にある地蔵堂の西20丁目通りを一本隔てて建っていた「円山開拓記念碑」ですが、明治23年に円山入植20年を記念して、当時の円山小学校の前庭に建てられました。その後、大正4年に大通西20丁目に移設され、昭和3年8月に現在の「円山会館」入口(北1条西23丁目)に再び移されました。「円山百年史」によれば、円山会館入口に移した碑はここにあったものを移したのではなくて、新たに碑を作って設置したとのことです。正しくは「円山開村記念碑」と言います。
なお、円山開村記念碑の右隣に建っている「上田一徳翁之碑」は、明治43年5月にここ(大通西20丁目)に建てられ、その後、伏見稲荷神社に移設されています。
円山開村記念碑(左)と上田一徳翁之碑(右)
南大通西20丁目
(「円山百年史」、円山百年史編纂委員会)
西へ西へと移動して行ったお地蔵さま
「円山百年史」に書かれている「開拓地蔵尊の由来」を読みますと、はじめ札幌の西5丁目を流れていた新川の川端に祀られていたお地蔵さまが、町の殷賑とともに徐々に札幌の西の方角に移動していった様子がわかります。ただし、移動時期については諸説あるようですので、参考に「新札幌市史」に書かれている移設時期を()で併記します。
『この地蔵さんが建立された頃の札幌は、南一条通創成川付近、東西二、三丁目あたりが中心街で、商業の盛り場であった。西五丁目はもう街外れで、ここには創成川から分流した新川という小川が北進して流れ、道庁前、北大前経由して再び創成川に合流しており、大正初期までは鮭がのぼったものである。地蔵さんが最初に建立されたのは南一条西五丁目の新川のほとりで、たぶんここが街外れであることから、
その後、市街の発展に伴い、
西十一丁目は
師範学校が建設され、その向かい側を中心に次第に住宅や商店が建ってくると、地蔵さんは再度移されることになった。新しい建立場所は南一条西十七丁目で、ここの道路用地にあった札幌神社祭典用の第一祭典区山車倉庫の前である。
ここに移されたのは明治三十五年頃
(明治40年、南1条西15丁目 ※新札幌市史にのみ記載されている)
その後数年を経て、大正六年頃
ところが、ここも市街地になって住宅や商店が建ち始めたため、数年にして大通西十九丁目へ四度目の引っ越しとなった。当時この町内に小川直吉という慈善事業化が住んでおられた。この人は札幌区の委託を受けて困窮者、浮浪者、行旅病人等の保護に献身的な努力をされた方であるが、その小川直吉の発起によって、
こうして市街の発展につれて次々と移転し、最後にお堂に納まったので拓けゆく札幌の道標として「開拓地蔵堂」と呼ばれ、附近住民ばかりでなく、一般市民の信仰が深くなっていったのである。
次第に信者も増えていったので、昭和五年春、小川直吉が発起人となり、近隣有志の浄財拠金を求めて、一寺院を建立し、同年七月、この開拓地蔵を祀って、真言宗による法要を執行した。』
大正6年頃、お地蔵さまが移された南1条西18丁目に聳えていた「カシワの巨木」ですが、大正5年の地形図を見るとその場所がわかります。
南1条西18丁目にあったカシワの巨木
(大正五年、地形図)
「河野常吉編 札幌昔日譚」で、坪内徳次郎(明治二年来札)という人が、「山鼻より円山にかけてカシワの疎林なり」と語っていますが、南1条西18丁目にあったカシワの巨木もその一つだったでしょう。
札幌開拓地蔵堂があった所
昭和10年の地形図を見ると、札幌開拓地蔵堂の位置がわかります。円山病院の敷地の南西角の赤い矢印で示した建物に、卍(寺院)を見ることができます。現在、夜間急病センター記念碑が建っているあたりでしょう。
札幌開拓地蔵堂があったところ
(昭和10年、地形図)
盛大な開拓地蔵尊祭り
小川直吉らの呼びかけで始められた「札幌開拓地蔵尊祭」は、当時の新聞記事を読みますと、大正15年頃から昭和13年頃まで毎年盛大に開催されています。
当時のお祭りの様子を知っていただくため、新聞記事の中から少しですが、ご紹介したいと思います。
札幌開拓地蔵祭、来る23,24日執行(北海タイムス、昭和2年9月20日)
一時は首が行方不明になっていて、首なし地蔵と呼ばれていた札幌開拓地蔵尊も、三年前に奇しき因縁からその首が新川の川底から現れて以来、首が元の座に復活し、大通の西二十丁目
只今では二十丁目唯一の名物になって、本年は内陣まで新築せる由にて、一層盛大に行うべく、余興には花相撲、花火、夜は活動写真等各種の催しあると。
首なし地蔵堂宇を改築(北海タイムス、昭和5年5月30日)
首の復活以来、札幌開拓地蔵尊として頓に
開拓地蔵のお祭(北海タイムス、昭和5年7月22日)
六十年前の昔から不思議にも、札幌市勢の開拓発展と運命をともにして来た因縁付きの札幌開拓地蔵尊、所謂
今年は特に、かねて改築中の拝殿の落成式が、お祭りの前日二十三日に行われるので、大した賑わい、花火、活動、芝居等の余興もあると。
落成した札幌開拓地蔵堂拝殿
開拓地蔵祭(北海タイムス、昭和9年7月25日)
札幌大通西十九丁目、開拓地蔵尊のお祭りは既報の通り二十三日宵祭、二十四日本祭で、仏式に依って執行されたが、余興には打揚花火をはじめ、芝居、夜には活動写真などがあり、所狭きまで露店が並び、昼夜に亘って非常な賑わいを呈した。
昭和13年以降は戦争の足音が次第に大きくなり、お祭りも開かれなくなったようですが、地蔵堂があった土地が札幌市の所有
最後に
最後に、少し長くなりますが、当時のこの付近の様子がよくわかる北海タイムスの記事です。
郊外繁盛記、円山、桑園(その三)札幌の西端付近(北海タイムス、昭和2年8月28日)
藪の小住宅
大体、鉱山監督局が、北の、今の植民学校になっている建物から同所に移転した時、大概の人はまず呆れた。所もあろうに、何だってあんな町端に行ったか、分からなかった。全く、そこは札幌府だか、円山村だか、ちょっと見ただけでは区別がつかない野原であった。で、中には、鉱物署(元のままの俗称)が円山に行ったと言っている者さえあった。
本社の担当記者でさえ、随分こぼしたものだ。「馬鹿にしてやがる。あんな郡部まで毎日材料取りに行けるかい」と憤慨していた。それほど、遠い、郡部の感じを与えたもので、何としても、札幌市中とは思えなかった。
南1条西18丁目にあった札幌鉱山監督局
(「札幌市写真帳」、北海道大学付属図書館蔵)
事実、円山はそれからすぐ先、二十丁目
小川の爺さんが ―何十年来、西二十丁目
まず、案内されたのは、小川さんの宅の前のヤマト種苗園
大体、北一条の参宮道路へ出て見ても、三井倶楽部の裏から西は、沿道には人家とても殆どなく、田舎道であった。東出の牛舎
(写真)ヤマト種苗園(大正14年7月15日)
(札幌市公文書館)
ヤマト種苗園があった所
(大正5年地形図)
ヤマト種苗農具株式会社が設立されたのは大正10年なので、大正5年の地形図が作成された時点ではヤマト種苗園ではありませんでしたが、長屋平太郎という人が店主の「札幌植産園」(明治44年創設、大通西10丁目)の苗園でした。
上記の新聞には「地籍は三丁歩からある」と書かれていますが、大正5年の地形図の面積を計測すると約1.8haありますので、約二丁歩になります。
大正12年11月、ヤマト種苗園の敷地内に円山線の電車が開通しましたが、種苗園はその後も存続していたようです。昭和6年の「円山住宅案内図」を見ますと、西20丁目は住宅地となり、その面積はずいぶん小さくなりましたが、西21丁目から西22丁目にかけて円山線の南側と北側に種苗園が残っているようです。
かつて円山病院があった大通西19丁目の現在
かつて避病院があった南1条/大通西19丁目
現在の南大通(西19丁目)