桑園と養蚕講習所
私が札幌に住んでいた時、今の「桑園」と呼ばれるエリアは昔、桑畑だったことは良く聞いていましたが、この近くに「養蚕伝習所(養蚕講習所)」があったということは知りませんでした。最近になって、大正五年の地形図を見て、養蚕伝習所がこの地域の古くからある施設であることを知りました。
しかし、養蚕伝習所のことを古い資料や新聞記事等で調べてみましたが、この地域とは浮いた存在だったようで、この地域の人々との繋がりを知ることができるような情報はほとんどありませんでした。養蚕伝習所が存在した明治から大正にかけては、この付近に住居はほとんどなかったのが原因かもしれません。
とりあえず、調べた結果をまとめてみることにしました。桑園という地域名の由来とともに昔、このような施設があったということを知っていただけたらと思います。
桑園の開墾と養蚕
開拓使はこれからの屯田兵に養蚕をすすめるための計画の一つとして、現在「桑園」の地区名で呼ばれている範囲よりももう少し広い南1条から北10条、西11丁目から旧円山村界の西21丁目あたりまでの地域を全部桑畑にすること決めました。黒田長官は、松本十郎大判官と相談して、庄内藩(今の山形県)の元士族を招いて、開墾してもらうことにしました。
この時の様子が、桑園地区連合町内会のホームページに非常に分かり易く書かれていますので、そのまま紹介させていただきます。
庄内藩士による桑園の開墾
5月末、品川から回ってきた開拓使の舟玄武丸で酒田の港を出発し、七重浜(函館)で2小隊がおり、大野の開墾に向かいました。残り4小隊158名は6月1日に小樽に着きました。黒田長官と松本大判官は銭箱で一行を迎えました。その後一行は隊の旗をかかげて歩き、銭函街道から円山を通って札幌本府に入りました。
宿舎は浜益通(北1条通り)のアイヌ語でキムクシメムと呼ばれるきれいな湧き水のそばに用意されていました。
昔、泉が湧き出していたところ
(現在の知事公館)
この近くで、都築、本多、白井、林の4人の組頭(小隊長)ごとに記念写真を撮りました。この人たちはちょんまげは切っていましたが、和服で、腰にはまだ大小の刀をさしていました。木を切ったりする時や土をおこしたりする時は、刀をそばの木につるしておきました。休み時間には、持ってきた四書五経などの本を読んだり、和歌を作ったりしました。
桑園を開拓した旧荘内藩士族たち、本多組
(北海道大学「北方関係資料」)
桑園を開拓した旧荘内藩士族たち、白井組
(北海道大学「北方関係資料」)
桑園を開拓した旧荘内藩士族たち、林組
(北海道大学「北方関係資料」)
桑園を開拓した旧荘内藩士族たち、都築組
(北海道大学「北方関係資料」)
6月4日から9月15日までの100日余りに、21万坪も開墾し、桑の苗を植える穴を掘りました。その頃の桑園は大木なども生い茂る荒れ野や湿地が広がっており、野生馬がたくさんいてつむじ風のように駆けていました。また本州と違って夏でも朝昼の気温の差が大きいため、開墾には大変苦労しました。そのため風邪や脚気などの病人も沢山でました。
しかし、
この時開墾した桑園の地図が、「札幌養蚕場 第一号桑園」(明治15年作成)に残されています。
札幌養蚕場 第一号桑園(明治15年)
(北海道立文書館・デジタルアーカイブ)
地図には碁盤の目状の道路が描かれていますが、これは畦道のようなものでしょう。地図の凡例には「園内道路」とあり、現在の道路とは違います。
この時、桑園を開墾した旧庄内藩士の一人・堀三義が記録した日誌「北役日誌」が、さっぽろ文庫50「開拓使時代」で公開されており、当時の札幌の様子が詳細にわかる貴重な資料です。この中から、6月2日に札幌本府を訪れた時の様子を紹介します。
堀三義「北役日誌」
本府は広い原野の中にあり、その広さは一里四方もある。戸数は1000余軒、そのうち本府をはじめ諸官邸が300軒ばかり、総て西洋館造りで、どの建物も角窓が設けられ、外観は美しい仏閣のようである。その中でも本府の庁舎は殊に大きくて美しく、見る人の目を奪う。その敷地は10万余坪で、回りに土堤を巡らし、前後に大門、左右に小門がある。いずれも西洋式である。(中略)また、街路の広さは大抵20間ばかりで、広い処は50間余も有る。市街の中には豊平川と云う清流があり、札幌八景の一つといわれている。処々に大小の橋があり、創成橋が最も大きい。川の両側には将来の美観に備えて花壇を植えている(桜、梅および他の樹木、いづれもまだ三、四尺の苗木である)。この土地は、まだ総て開かれるには至っていない。諸市(町)の敷地には官邸あり、農家あり、または商店がある。宏麗な高楼もあれば、その隣には壊れた空き家がある。或いは、山泉を巧みに造った良い邸園があれば、その傍らには雑草の茂る廃田もある。この様に美悪混雑の状況であるが、これはまだ開府以来年数が浅いためであって、将来本府建設の事業が終了すれば、昔武蔵野を開いて現在の東京が出来たように、この土地も大都会になることが期待できる。
屯田兵による養蚕事業
旧庄内藩士により桑園が開墾された明治8年、北1条西8丁目に蚕を育てるための「札幌養蚕室」が建てられました。札幌養蚕室では、屯田兵などの家族が蚕を育てていました。
(写真)札幌養蚕室、明治10年頃
(北海道大学付属図書館蔵)
一方、旧庄内藩士による開墾後の桑園は、琴似(明治8年入植)、山鼻(明治9年入植)の両屯田兵に受け継がれ、宿泊に利用された建物は、桑園を維持運営するために「桑園事務所」として使用されました。
明治15年になると、「札幌養蚕場 第一号桑園」の下半分の薄赤く色分けされている土地(北1条から南1条までの間の地域と北1条から北2条までの旧円山村界付近)は、明治15年に「桑園」から「札幌牧羊場」になりました。
このように屯田兵により進められてきた札幌の養蚕事業は失敗し、明治19年5月になって札幌養蚕場事業は中止されます。この年から、桑園があった土地の大部分が貸し付けられ、この地域から桑畑は徐々になくなっていきます。
「札幌区史」には、次のように書かれています。
『札幌桑園は、明治19年中、成墾地、荒蕪地、各5町歩以内を区内養蚕家に貸与し・・(途中略)・・、20年4月第1号桑園内7町余歩を蚕室に〇して、長野長太郎、町田菊次郎
養蚕伝習所(養蚕講習所)の設置
明治22年、森源三邸の西側(北1条西17丁目から北2条西19丁目)に札幌養蚕伝習所(養蚕講習所)を開設しました。
明治21年12月7日の北海道毎日新聞の記事「養蚕伝習所設置の計画」を読みますと、養蚕伝習所を設置する理由が書かれていますが、難解な文書が長く続きますので、私なりに要約してみました。
『近年、本道の養蚕事業は大きく進歩してきましたが、蚕の飼育方法は各自の故郷に伝わる古い習慣によるもので、養蚕事業で最も恐るべき蚕病予防法などは知らないために、失敗することも少なくありません。
今年の不作も蚕病によるものであり、本道の養蚕事業を拡張するためには、養蚕家に正しい飼育法を授け、蚕病の予防方法を講じることが緊急に必要なことです。
このため北海道庁では、完全な飼育法と蚕病の予防などに関する学問上の原理を教授するための養蚕伝習所を札幌に設置し、毎年20名程度の生徒を養成し、この人たちを養蚕巡回教師に充て、全道の養蚕事業を改良していくことを計画しています。
しかし、現在の養蚕室(北1条西8丁目)は構造上の問題から寒地に適さず、市街に近接し将来桑園を維持するために適した土地柄ではないため、従来屯田兵本部へ貸与した桑園の約二町歩とその地続き(北1条西17丁目~北2条西19丁目)を伝習所用地とし、蚕室と付属舎を新築し、本伝習所設置の趣旨を貫徹するに足る実力と技術を備えている人に貸与する計画で、来年の春、雪が解けたら直ぐに着手される。』
これ以降、養蚕講習所は毎年講習生を受入れ、養蚕の伝習を進めていきます。
明治17年4月に東皐園を創設した上島正の子息・上島惣五郎も第1回の講習生でした。
明治32年の「札幌市街之図」に養蚕講習所(養蚕伝習所)が描かれていますが、講習所の建物は北1条西19丁目にあり、それ以外は付属桑園だったようです。
(地図)札幌養蚕講習所の場所
「札幌市街之図」(自治堂、明治32年)
(写真)札幌養蚕講習所の門と桑の木
「北海道農事試験場蚕業講習所、東宮殿下行啓記念(上)」
(北海道大学付属図書館蔵)
養蚕講習所の内部
「北海道農事試験場蚕業部 北1条西19丁目、札幌開始五十年記念写真帳」
(北海道大学付属図書館蔵)
上の写真は「北海道農事試験場蚕業部」とありますので、大正6年から養蚕講習所が北1条西19丁目から移転する大正11年までの間に撮影されたようです。
左端に映っている2階建ての建物は、見覚えがあります。私が小さい頃、札幌開発建設部が使用していた建物ではないでしょうか?
(写真)札幌蚕業伝習所教師及び生徒たち(明治22年)
(北海道大学「北方関係資料」)
(写真)北海道庁農事講習所桑園(明治末)
(北海道大学「北方関係資料」)
大正5年の地形図を見ますと、蚕業講習所内に多数の建物が見られ、敷地の東側には桑畑が広がっています。また、北一条通りの南側にも、赤丸で示した「桑畑」の地図記号が描かれているのを見ると、地図上に緑色で示した桑畑は、北一条通りの南側も含め蚕業講習所の敷地であったと思われます。
大正5年の蚕業講習所
(大正5年地形図)
大正11年、「養蚕講習所」を札幌区北18条にあった北海道農事試験場の「本場」に移転し、この地域から養蚕講習所はなくなりました。
養蚕講習所の移転跡
養蚕講習所が移転した跡地は、どのようになったでしょうか?
昭和2年9月14日の北海タイムスの記事「郊外繁盛記、桑園方面(その8)将来は駅が中心」には、『庁立高女
昭和3年の「札幌市都市計画内地番入精細図」を見ますと、北1条西18丁目から北2条西19丁目にかけては「講習所用地」のままになっていますが、北1条~北2条西17丁目については「道庁、官舎、農事
札幌市都市計画内地番入精細図(昭和3年)
昭和10年の地形図には、養蚕講習所の跡地に一つの建物
昭和10年地形図
建物の位置と形状から察すると、先に紹介した写真「養蚕講習所の内部」の左端に映っている建物で、私が中学校の時まで、札幌開発建設部の建物として使用されていた木造2階建ての建物ではないでしょうか?
札幌管区気象台
昭和14年7月1日に、北2条西18丁目に札幌管区気象台が移転してきました。
気象台庁舎(昭和34年5月撮影)
この建物は、昭和38年10月、夜に火事で燃えてしまいました。
(写真)現在の札幌管区気象台
札幌土木現業所から札幌開発建設部へ
現在「札幌開発建設部」がある北2条西19丁目の土地はどのように変遷したでしょうか?
私の記憶の片隅に、今の札幌開発建設部西側の西20丁目通りにあった電車の停留所は、確か「土木現業所前」と呼ばれていたような気がして調べてみましたところ、昭和21年3月19日の北海道新聞の記事「札幌市建物疎開に伴う諸支払いの件」に、札幌土木現業所の住所が北2条西19丁目となっていました。さらに、昭和29年の「札幌市地図」には、現在の札幌開発建設部があるところが「土木現業所」となっており、電車の停留所も「土木現業所前」と書かれています。
昭和14年7月26日の北海タイムスの記事「土木現業事務所統合」に、『札幌外9か所に土木現業所を設置する』と書かれていますので、恐らく、昭和14年頃から「札幌土木現業所」になったのではないでしょうか?
次の写真は昭和23年に米軍によって撮影された空中写真です。 昭和10年の地形図に描かれている建物が写っています。現在は、隣の札幌管区気象台との間に西19丁目通りがありますが、当時、道路はありませんでした。
空中写真(米軍、昭和23年4月22日)
北海道開発局が発足したのは昭和26年です。
そこで、「昭和23年9月から昭和27年8月まで」の札幌市電の路線図を見ると、停留所名が「土木現業所前」となっていますが、「昭和27年9月から昭和34年11月まで」を見ると、「開発建設部前」に変わっています。したがって、昭和27年頃に札幌土木現業所が札幌開発建設部に変わったのではないでしょうか?
なお、それまであった札幌土木現業所は、南11条西16丁目に移転しました。現在の同所は、北海道空知総合振興局札幌建設管理部ですが、昔は札幌土木現業所という名称でした。
一方、札幌開発建設部では昭和36年から3年かけて、現在の庁舎に改築されました。
(写真)現在の札幌開発建設部
道庁官舎から道立近代美術館へ
最後に残った西17丁目ですが、私が中学生の頃は二軒長屋の道庁の官舎が建ち並んでいました。
空中写真(米軍、昭和23年4月22日)
昭和52年、ここに北海道立近代美術館がオープンしました。私は既に東京に移っていましたので、オープン当時の詳しいことは知りませんが、官舎の建物も相当古かったので、官舎を建て替える代わりに近代美術館の用地に選定されたのではないでしょうか?
(写真)道立近代美術館
(北1条西17丁目)
最後に
最後に、大正元年から昭和2年まで、知事公館の北一条通りを挟んで南側の北1条西15丁目に住んでいた山岳画家・坂本直行氏の思い出話の一部をご紹介します。
知事公館のあたり、坂本直行(さっぽろ文庫2、札幌の街並)
当時の札幌の街の西部は、西十五丁目の私の家が終わりで、森氏の邸宅の西側は二十丁目までは桑畑であった。これはここに養蚕試験場があったからで、それより以前には、桑畑はもっと大きなものだったかも知れない。現在桑園というこの付近の地名は、この桑畑の名残りである。私はこの養蚕試験場にも遊びに行った。養蚕の仕事が面白くて、よく手伝いに行ったが、帰りには蚕をもらってきて家で飼ったことが、今でも楽しい思い出になっている。
北一条通りは、当時二十丁目で打ち切りで、札幌神社へ行くには、南一条通りしか道はなかった。二十丁目から神社の坂までの道ができたのは、たしか私が札幌二中の三年生頃だったから、大正八年前後
蚕業伝習所跡地の現在
北1条西19丁目(手前)~北2条西17丁目(奥)
養蚕伝習所の門があった辺り
(北1条西18丁目)