思い出の円山市場

 私の家から円山市場までは少し離れていましたが、お店がいっぱいあること、新鮮なこと、安いことなどから、母に付いてよく行っていました。
 市場に入ると通路には買い物客が溢れ、威勢の良い声が飛び交っていました。


懐かしい思い出の円山市場

 残念ながら2010年に円山市場は閉じてしまいましたが、円山市場はいつ、どのようにしてできたのか調べてみたいと思います。

円山朝市の成り立ち

 札幌市中央区のホームページ「歴史の散歩道」にある「まるやまいちばの歴史」には、円山市場の成り立ちが、次のように書かれています。

 『明治の中頃、札幌の開拓が進み、人口が増えてくると、野菜の需要も増えてきました。それまでの農家は、主に近隣の住民を相手に野菜を売っていましたが、需要の高まりを受け、次第に街まで運んで売り歩くようになりました。さらに、その野菜をまとめ買いして小売する仲買人も現れ始めました。

 明治36年頃、そうした農家や仲買人が、当時町外れだった南1条西11丁目付近に自然と集まり、朝市を開くようになりました。ここには円山のほか、平岸や豊平、白石、琴似などからも農家が集まってきました。

 当時は野菜を冷蔵庫で保管しておくことができない時代でしたので、仲買人はその日のうちに売り出さなければならないため、セリは早朝から行われ、市場が最も活気づく時間帯は午前五時頃だったといいます。

 盛況ぶりが増していく中、市街地が広がるにつれ、朝市の場所も徐々に西へと移動していきました。』

 また、さっぽろ文庫7「札幌事始め」の「魚菜市場」には、次のように書かれています。

 『市中に行商していた近在の農家が、明治二十六年(1893)、南一西十一辺りの旧市街との境にたむろして市を開くようになったのが円山青物朝市のはじまりで、市街化の発展につれて市場は西十五、西二十丁目とだんだん後退し、大正七年(1918)西25丁目に吹上市場を設け、十一年(1922年)西二十四丁目に移った。』

 これらのことは、円山市場のことを最も熟知している「円山百年史」(円山百年史編纂委員会、昭和52年6月25日)に書かれている内容とほぼ同じですので大部分は正しいものと思われます。ただし、昔の新聞を読みますと、大正7年に西25丁目に円山蔬菜市場が設けられるまでの記事はありません。
 ここでは、昔の新聞記事と参考資料を中心に、円山市場の昔のことを紹介していこうと思います。

 参考までに、札幌市内の市場に関する新聞記事は、明治20年の南1条創成川端の魚市場計画から始まり、相当数が見られます。例えば、明治33年には大通東3丁目で魚と青物の市場が開設されています。

円山朝市の始まり

 大正7年4月23日の北海タイムスの記事「円山蔬菜市場」によりますと、『円山村においては、明治30年頃から銭函道(南一条通)と山根通が交わる十字路付近の路上で蔬菜市場が開かれました』と書かれており、明治36年頃南1条西11丁目付近で始まった市場よりも前に、円山村では市場が開かれていたようです。
 これが本当の「円山朝市」の始まりではないでしょうか。

札幌青物果実市場の開設

 明治41年5月22日の小樽新聞の記事「札幌青物果実市場開設」によりますと、南1~2条西10丁目に、札幌青物果実市場が開設されました。

 『札幌郡山鼻村、横島由太郎、犬飼吉彌、岡村潔の三氏合同して札幌区南二条西十丁目一番地に果実青物市場を来る六月十日より開設する筈なるが、組合組織とし、同付近一般の生産果実青物の委託販売に応ずべく、卸受人は随意に出入りし得る〇簡便の取扱いを為す。』

 さらに、同年8月2日の記事「札幌青物市場開場式」には、『今回、札幌区南一条西十丁目に新設せる札幌青物市場にては、一日午前九時より開場式を挙行せり。』と書かれています。

 『市中に行商していた近在の農家と仲買人が、明治36年頃、町はずれだった南1条西11丁目辺りで市を開くようになった』のが円山朝市のはじまりだそうですが、この記事が書かれた明治41年頃の地図(「最新札幌市街図」、明治42年3月)を見ますと、未だ町はずれのままですので、円山朝市はここで開かれていたとものと思われます。


最新札幌市街図(明治42年3月 富貴堂)

 この記事が書かれた2年後の明治43年5月に、南2条西11丁目付近から石山通を南下し、藻南で豊平川を渡って穴の沢に至る馬車鉄道が開業しましたが、当初は主に石切山の軟石を運び、12人乗りの客車による旅客輸送は1日3往復だけでしたので、付近の街並みに大きな影響は与えなかったものと思われますが、明治44年の地図を見ますと、この付近の住居(建物)は急激に増えており、大規模な市場を運営できる状況ではなくなったようです。


「札幌市街之図」(明治44年)

 この記事にある市場を設置したのは山鼻村の農家のようです。この当時、山鼻村と円山村は合併し藻岩村という名称でしたが、それぞれの農家は別々の行動をとっていたようです。その山鼻村の農家は、この時期、円山村の農家が集まっていた円山朝市の近くで市場を始めたのでしょう。さらにこの後、山鼻村の農家は東本願寺裏で市場を開き、最終的には大正7年に円山朝市と合併しています。

雑踏極める円山朝市

 円山朝市のことが始めて新聞に報道されたのは、大正5年8月26日の北海タイムスの記事「円山村の朝市」です。

 『札幌郡藻岩村字円山村にては、国道筋三十六番地前より三十七番地までの道路間約二町に、毎日午前三時より同五時頃まで、朝市が開始され、製作者と蔬菜仲買人、其の他の買人とにて雑踏を極め居(お)れり』

 この時点で、すでに円山村への移動は完了していたのではないでしょうか。

円山蔬菜組合の結成

 大正7年4月23日の北海タイムスの記事「円山蔬菜市場」によれば、上田萬平氏を組合長として、円山蔬菜組合が結成されました。

 『札幌区近郷の優良なる野菜生産地として知られたる円山村にては約二十年以前(明治30年頃)より、其の十字街の路上(下の地図に赤色の➀で示したところ)に於いて、俗に円山の朝市と称して、盛んなる時は数百の売り手、買い手が集まりて青物の販売をなし居たるが、同村には官幣大社もあり、区の公園も開け、且つ近く電車も開通するに至る可きに就き、今後人車の往復益々繁を加う可(べ)く、即(すなわ)ち本年より円山村蔬菜組合を設けて、上田萬平氏を組合長とし、同村市街地の側(かたわ)ら国道筋に沿えて、上田氏宅より以北、円山小学校までの間約千坪を新たに市場敷地(下の地図に青色の➁で示したところ)として、去る二十一日販売所の設備成りたれば、来る五月一日頃より一般区民に新鮮なる野菜を極めて安価に供給すべしと。

 因みに近時、師範学校校舎前(正しくは、南1条西18丁目)に設備中の札幌青物商共同購買所は青物仲買人の団体より成りて、仲買人のみに販売するものなるが、今回の円山蔬菜販売所は同村生産者のみより成り、広く一般需要者に供給すと。』


円山朝市があったところ
➀大正7年以前
➁大正7年以降
(大正5年地形図)

(写真)円山蔬菜市場
(札幌市中央図書館、新札幌市史デジタルアーカイブ)

南1条西18丁目にできた札幌青物商共同購買所

 大正7年5月4日の北海タイムスの記事「野天で開場式、札幌青物商購買場」によりますと、南1条西18丁目に仲買人のための市場、「札幌青物商共同購買所」が開かれました。

 『札幌青物商百五十有余名より組織せらるる札幌青物共同購買場の開場式は、三日午前十一時三十分より、南一条西十八丁目の雲雀(ひばり)(さえず)り、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう=春風がのどかに吹くさま)たる郊外に近き野天に於いて開かれた。日頃、天秤棒を肩にして居る八百屋さんも、今日に限りて紋付きの羽織にセルの袴と云う姿、中には白色桐葉章の勲章さえ和服の上へ佩用して居るものがあった。

 定刻、村澤幹事の挙式の辞あり、次に同組合の顧問、阿由葉氏の希望的祝辞と共に、同会の前途に関し大いに警告する所あり、大西道庁勧業課長、杉本区助役、助川衛生組合長等の祝辞や希望的演説にて式を閉じた。

 場内は幔幕や酒屋さんの広告旗を以って飾られ、音楽隊及び煙火等にて景気をつけ、午後零時三十分頃より餅撒きを行いたるに、円山近傍の大供子供等、蝟集(いしゅう=一か所に群がり集まること)して拾い集め、種々滑稽を演じた。

 八百屋さん達も先ず日頃の計画が出来上がったと云うので、盃を挙げ、これから札幌住民に成るべく安い野菜を供給するに努めるのだと力んで御座った。』

 「円山百年史」によりますと、札幌青物共同購買場が開設された事情が次のように書かれています。

 『円山蔬菜組合設立当初の組合員(生産者)は二百七十余名で、これにより無組織で自然発生的な集散取引形態であった従来の朝市が、近代的な組織形態へと前進した。
 ところが、この組合は生産者の組合であるため、市場運営も生産者主体となることを懸念した札幌の仲買人たちは、南一条西十七丁目(正しくは西十八丁目)(岡村氏宅)に同じ様式の市場を開設、ここへ生産者に野菜を搬入させて仲買人主体による取引を行おうと企画したため、双方の市場が対立することとなった。
 そこで円山蔬菜組合に所属の生産者は相図って、対手側市場への持込出荷はもちろん、仲買人たちの戸毎訪問仕入れに対しても応ぜず、円山朝市以外への出荷は一切停止することとし、生産した野菜は円山蔬菜組合が一手に買取った上で、これを炭鉱等の遠隔消費地へ直接卸売りする方法をとって対応した。
 当時は本州からの野菜入荷などは僅少で、地場物が頼りであるだけに、札幌市中の一般消費者は品物のない仲買人(八百屋)の店頭よりも、直接円山市場へ出向いて買い求めるようになり、遂に市内仲買人も円山朝市へ仕入れにくることとなった。
 双方の市場の対立は二か月ほどで解決し、大正七年七月からは仲買人と生産者が円満協定し、自由相対値段による卸取引市場となった。
 これより先、山鼻伏見方面の生産者は東本願寺裏に山鼻青果物販売場を設けて自由販売を行っていたが、大正七年七月、円山蔬菜組合に合併した。
 これにより円山蔬菜組合は名称を藻岩村蔬菜組合と改めて、円山と山鼻の両販売場を設けることとなった。』

 南1条西18丁目の岡村氏宅に設けられた札幌青物共同購買場の位置を当時の地図で確認することができました。


札幌青物商共同購買所が開かれた南1条西18丁目岡村氏宅
「札幌市制紀念人名案内図」(大正11年5月)

円山朝市の移設

 大正11年4月、円山朝市は再び移設されました。(「円山百年史」)

 この年、札幌電気軌道会社が電車の線路を円山公園まで延長する計画をたて、その線路が朝市を南北に分断して突き抜けることとなりました。また、同じ頃に円山市街地の道路網が計画され、大掛かりな土地区画事業が行われることとなり、朝市は再度移転することとなりました。

 新しい朝市の場所は、従来の通りより一町東寄り(現在の西24丁目通り)の大通りから北一条までの間で、道路予定地を含め幅十三間(23.6m)、延長百三十五間(245m)の敷地を借地しました。


藻岩村蔬菜組合円山販売場(大正末期)
(さっぽろ文庫 31、「札幌食物誌」)

 この後、この通りは市民に親しまれ、朝市通りと呼ばれるようになったそうです。

札幌の名物となった円山朝市

 昭和2年9月4日の北海タイムスの記事「郊外繁盛記、円山、桑園(その十一)円山名物の朝市」に、札幌では既に有名になった円山朝市のことが詳しく描かれています。

 『円山で是非とも紹介しなければならないものに、もう一つ、朝市がある。盛りは七月、八月からかけて九月の三カ月、蔬菜や果実の出回る頃で、昨今は最も賑わっている。暁の三時頃から、もう市が立っている。

 西瓜(スイカ)に胡瓜(きゅうり)、トマト、カボチャ、唐黍(とうきび)に菜豆類、野菜類から葡萄、林檎に至るまで、秋の収穫を一切集めて茲(ここ)に持って来る。区域は地元の円山から山鼻、八垂別、平岸、豊平、白石、札幌村方面まで及び、更に西北は札幌神社裏手の十二軒、小別澤、盤の澤、滝の澤、琴似、手稲、篠路等に及んでをる。

 まづ、札幌市を取り巻く農村から二人や三人必ず出ている。そうして何でも早いのが勝ちとあって、遠い方面では夜中の十二時過ぎ、もう馬車をガタンゴトンいわせて出かけてくるそうだ。中には小学校の児童が、小さい籠を背負って出てきているのもある。

 毎朝出る人の数は、多い時には千人を越える。少なくも五、六百人は下らないという。買い手の方にも種々雑多な階級があって、丸髷(まるまげ)の奥さんから束ね髪のお神さん、お婆さんも居ればモダンガールもいる。夏の朝の爽涼を楽しみながら、新鮮な蔬菜、果実を安価に買い得られるので面白く、随分市中からも出かけて行く。故に朝の円山は、全く熱閙(ねっとう、=人が込みあって騒がしいこと)の巷と化すのである。そうして売買される一か年の総額が二十五、六万に達するそうだ。

 現在は藻岩村蔬菜組合と称し、組合員五百四十余名である。沿革は随分古い。昔は―それは日露戦争前の明治三十六年頃のことで、最初は札幌の南一条西十丁目か十一丁目あたりで、自然に集まって来る連中が一団となって朝市を開いていた。それが段々盛んになって来るにつれて、一方札幌市も発展し、膨張して来た。そうして市の発展に押され押されて、漸次西に下り、ひと頃は、円山と札幌の堺なる西二十丁目を市場に定めていたこともある。その頃から円山の朝市として漸く一般に認められるようになっていた。それで円山の生産者が大正七年四月これを組合組織にして、益々宣伝大いに努め、今日の隆昌を見るまでに漕ぎつけたというのである。

 今日に於いては円山の朝市として近郷近在は更なり、札幌市中でも知らない者はない程有名になって居る。だが円山も余りに開けて来た。周辺に恁(こ)う家がこんで来てはいつまで茲(ここ)で朝市も出来まいとそろそろ移転説も抬頭(たいとう)して来ているそうだ。』

市場周辺の小売商との軋轢など、諸問題が発生

 昭和9年頃になると、円山朝市のあまりの人気に、周辺の小売商との間で問題が生ずるようになってきます。

円山朝市の跋扈(北海タイムス、昭和9年4月27日)

 札幌名物の円山朝市場は蔬菜果実生産者より直接需要者に供給する目的で設けられたのであるが、然(しか)も近年に至っては、同市場は蔬菜類以外に露店雑貨商の無自制的跋扈(ばっこ)を見るに至り。

 付近に店舗を構へ、租税其の他公課を負担し、営業しつつある小売商は勿論、札幌市内小売業者の被害甚大なるものあり、此の儘(まま)推移すれば、中小雑貨商人は没落するの外なく、延(ひ)いて社会問題をも惹起(じゃっき=問題などをひきおこすこと)するに至るべき、由々しき問題なりとして、札幌市南一条西十三丁目以西の実業連合会各団体は、十九丁目連合会の金開貞一氏外五名を代表とし、二十六日午後、道庁商工課に出頭、当局に対し、種々本問題に就いての小売業者の立場とその善處分を添へ、且陳情書を提出し、いよいよ其の目的達成に乗り出す事となった。

円山市場の裏表、嘆きは店舗持商人(北海タイムス、昭和9年5月10日)

 札幌圓山近郊の農産物生産者達は早くより円山蔬菜生産組合を組織し、その生産物を共同販売するため、更に卸売市場を開設していたが、これが発展に従って組合員以外の小生産者がその生産物を携え、所謂(いわゆる)露店商人として現れ、前記卸売市場が建物を持っておらぬため、その区域内に侵入して来て、小取引を始めるに至り、その数百五十人より二百人に達している。

 右の如き実情に鑑み、蔬菜生産組合では過般改正をみた小売市場取締規則に従って、小売市場を開設し、之等露店商人をこの中に収容し、合法的に規制開業せしめる様にした處が、付近在住の小売商は「消費者が現金のある中は安い朝市の露店商人より買い入れ、自分達の店に立つ時は大抵掛売買である。従って、掛金回収にも困難が生ずる様な有様で、之等無税の露店商人の圧迫に自分等一体どうしたら良いのだろう」と、道庁商工課に対し、小売市場許可取り消し、さもなければ厳重取締をして貰(もら)いたいと泣き込んだが、これこそ没落の淵にさ迷う小商人の血の叫びであり、生産者が消費部門へ進出した時に起る悲惨な現象の一つである。

 昭和9年に発生した市場周辺の小売商との軋轢問題に加えて、露店による衛生上の問題や、市場が道路上で運営されていることから、道庁としてもこのまま放置できず、移転問題も発生します。

円山卸売市場は、明年3月まで営業許可(北海タイムス、昭和10年5月3日)

 許可期限が四月末日迄となって居た藻岩蔬菜生産者組合の圓山卸売市場は、市場規則に依る衛生設備不完全、道路使用等の事から存廃問題が起り、生産者は勿論、消費者たる札幌市民の重大な関心事となり、注目されて居たが、一日、「現在の位置に於いて通路を使用せず、組合の所有地内に於いて営業する事とし、昭和十一年三月三十一日迄継続」を許可された。(以下省略)

 これらの諸問題に対して、藻岩蔬菜生産組合は市場の仮屋を建築するとともに、小売できる場所と時間を限定することで、当面の解決を図ったようです。

圓山の朝市仮屋落成(北海タイムス、昭和12年7月3日)

 開設以来二十年「圓山の朝市」と市民にお馴染みの藻岩蔬菜生産組合圓山卸売市場並びに小売市場では先頃、四棟四百六十坪の仮屋が完成、三日関係者招待、落成式が挙行される。

 1948年4月の米軍による航空写真を見ると、この時建てられた四棟の仮屋は、それまで円山朝市が開かれていた円山四丁目(現在の西24丁目)沿いにありました。


朝市仮屋が建てられたところ
(昭和10年地形図)

圓山の朝市、今日から小売りしない(北海タイムス、昭和12年12月17日)

 市場建物の一部で朝八時から十時までの間小売りを行えることとし、それ以外の場所では小売りができないように、一般消費者が卸売市場内に入る事を取り締まることになった。

戦前・戦後の円山朝市

 昭和15年4月17日の北海タイムスの記事「円山朝市も法人化」によりますと、円山朝市が産業組合に改組し、「円山蔬菜販売利用組合」として法人化されました。

 これ以降、敗戦後の昭和25年頃までの間、円山朝市に関する新聞記事はほとんど見られなくなります。

 戦争による統制により、昭和17年4月、市場の運営を全面的に札幌市農会に委譲して組合組織を解散し、大正7年以来25年間の歴史に幕を閉じました。(円山百年史)

 札幌市農会に委譲された後は、農会により生産、配給統制の一環として運営されていましたが、戦局の進展につれて、かつての朝市の活況は見るべくもなく、戦後を迎えることになりました。(円山百年史)

 戦後の昭和22年からは建物を外地引揚者住宅に供したりしていましたが、経済がようやく安定してくるにつれ、朝市再開の機運も盛り上がってきました。(円山百年史)


空中写真(米軍、昭和23年4月22日)

 昭和23年8月31日、北海道新聞の記事「円山の夜市、一日から」によりますと、『「円山の朝市」として市民になじみ深い元円山朝市がこんどは朝市ならぬ夜市に看板をぬりかえ、九月一日から開店する。円山朝市通満州引揚者高瀬〇悦さんが引揚、戦災者や店舗のない人たちのためにと円山町農協組に交渉の結果、同組合所有の朝市施設を借り受け開店の運びとなったもので、毎月五日と二十日の定休日を除き、午後四時から九時まで営業、セトモノ、果実〇から古〇〇さんまで十四軒が軒をならべて、昔なつかしい夜店風景が現出する。』とのことで、店舗の再開がはじめられたようです。

 昭和24年には小売商有志が円山市場雑貨商組合を結成して、旧円山朝市の建物を利用して小売市場が開設されました。(円山百年史)

“土用丑”に円山の朝市風景
(北海道新聞、昭和24年7月23日)

円山朝市の再移転

 琴似手稲方面の生産者はこの場所が不便ということで別組織をつくり、北7条西25丁目に市場を新設し、昭和24年に移転しました。(円山百年史)

 昭和26年8月2日の北海道新聞「北円山に青果市場」によりますと、『北7条西24丁目から西27丁目に青果物の卸売市場を設けるため、10日に設立準備会を開く予定』となっています。

 残った円山の生産者も、ここが住宅地として発展し、生産者の売り場としては不都合なことから移転することになり、北6条西24丁目に新しい市場を開設し、昭和26年10月に移転しました。(円山百年史)

 北円山に移転した市場が新しい“円山朝市”または“六条市場”と呼ばれるようになりました。一方、大通西24丁目に残った市場は、一般の買い物客向けの“円山市場”として営業が続けられました。

路上を埋める朝市の混雑
(北海道新聞、昭和31年5月12日)

 昭和34年12月6日には、新しい円山朝市に近い北12条西20丁目に建設していた札幌市中央卸売市場が開設し、青果の卸売が始められました。最初は、円山朝市の足元にも及ばない取扱量でしたが、昭和36年になると札幌市と中央卸売市場による円山朝市の分裂工作が徐々に効を奏し、琴似手稲方面の生産者の朝市が中央卸売市場の場外に移転し、その後解散してしまいました。


六条市場があったところ
(昭和50年地形図)


(写真)円山朝市、北6条西24丁目
(円山百年史)

 平成9年6月30日、104年間続いた円山朝市がついに閉鎖されました。

104年の歴史に幕を下ろすことになった円山朝市
(北海道新聞、平成9年6月28日)

円山市場のその後

 一方、北1条~大通西24丁目に残された円山市場は、その後どうなったでしょうか?

  昭和24年に開設された「円山市場雑貨商組合」は、昭和28年に「円山市場事業協同組合」に改組しました。

 “ケアグラウンド円山”のホームページ「まるやまいちばの歴史」に、北1条西24丁目にあった昭和43年頃の円山市場の建物と店内の写真が掲載されています。

 昭和45年には、それまであった木造市場の南隣り(大通西24丁目)に鉄骨ALC造り2階建ての新しい市場を新築し、営業を始めました。北1条西24丁目の旧市場跡地は、駐車場になりました。


円山市場
(まるやまいちばホームページ)

 市場に入ると魚屋さんの威勢の良い声が飛び交い、通路にはたくさんのお客さんが行き交い、活気あふれた市場でした。

まるやまいちばの賑わい、昭和48年8月23日
(札幌市公文書館)

 ピーク時には50店舗を超えていましたが、次第に店舗数が減少し、平成7年頃に買い物に行った時は、2階は閉鎖状態でした。

 平成22年3月31日午後7時、札幌市民に親しまれ、利用されてきた円山市場は、惜しまれながら閉店しました。閉店時の店舗数は37店舗でした。

最後に

 円山市場が閉店した年に(平成22年)には、円山市場に出店していた3店舗が共同して、北2条西25丁目に「ミニまるいちば」が開かれました。


はじめの「ミニまるいちば」、北2条西25丁目(平成22年8月)

 夏に札幌に帰省した時に、「ミニまるいちば」を見つけました。

 その2年後の平成24年2月24日、円山市場の駐車場だった北1条西24丁目に5階建てのビルが建築され、その1階に円山市場で店を構えていた5店舗が、新たに「ミニまるいちば」として開店しました。


現在の「ミニまるいちば」(平成28年7月)

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