札幌牧羊場と師範学校
私が小さい頃から、地下鉄西18丁目駅に近い南1条通りの南側一帯には、現在と同様に、札幌医科大学をはじめ、大きな病院が立ち並んでいましたが、幸いなことに大きな病気にかからなかったため、利用したことはありませんでした。そのためか、かつてどのような建物が建っていたのか、記憶が定かではありません。
同じ山鼻でも、もう少し藻岩山に近いところには、高校の時の友達が多数住んでいました。それらの友達の大多数は東京に本社がある会社の札幌支店に務めている転勤族の子弟たちで、会社の社宅に住んでいました。友達の家に遊びに行く時は、市電の西15丁目駅まで歩き、西線に乗って行きました。しかし、親の転勤により、残念ながら卒業まで札幌に残っている友人はわずかでした。
最近、開拓使時代の”札幌牧羊場”の写真を見ました。当時、地下鉄西18丁目の駅がある大通と南一条通の南側一帯は札幌牧羊場と呼ばれていたようです。札幌の絵葉書には必ず出てくる牧歌的な風景の「月寒羊種場」(現羊ヶ丘展望台)は、どうやらここから始まったようです。札幌牧羊場が廃止された後、ここにはこの地域で初めての学校となる師範学校ができ、その後その跡には現在に繋がる大きな病院が建っていきました。
今回は、札幌牧羊場ができた経緯とその跡地にできた師範学校のことなど、南一条通の南側一帯は昔どのようなところだったのか調べてみました。
札幌牧羊場
明治9年、アメリカからエドウィン・ダンが来札し、札幌の西部に牧羊場を開設します。
札幌牧羊場始まる
さっぽろ文庫50、「開拓史時代」によりますと、札幌牧羊場の始まりについて次のように書かれています。
『明治9年(1876年)に、南一条通の南、石山通(西11丁目)以西の地区に約30町歩の牧羊場を開いて、札幌官園の緬羊をここに移した。チモシー・クローバーなどの牧草を蒔いて、夏には放牧場とし、冬には牧場内に設けた防寒羊舎で飼育した。明治十四年には、サウスダウン種。スパニシメリノ種など330余頭が飼育され、羊毛の品質も好評を得ていた。』
また、「札幌区史」(明治44年7月、札幌区)には、さらに詳しく次のように書かれています。
『牧羊は明治7年9月、札幌官園内の仮牧場に、七重より米国種羊サウスダン牝7頭、牡1頭を移したるに始まり、翌8年又青山官園より米国種羊サウスダン牝牡各10頭を移し、明治9年に至り、石山道以西銭箱街道以北
爾来生育頗る良好、毛質繊維緻密にして、毛量平均一頭より十斤許を得、
該場の組織は是を三区に分かつ、各一区凡そ三万三千餘坪、牧草「チモセ」を播し
毛羊、肉羊俱に
羊舎は牧場中央に在り、其の結構専ら防寒を主とし、広さ七十九坪にして、三百餘頭を容るるに足り、凡そ一坪四頭の割とす。場地積七十英町
明治9年に札幌牧羊場が設置されたところ
「石狩国札幌市街之図」(明治10年代末)
札幌牧羊場内の配置図です。
札幌渡島通牧羊場
「開拓使事業報告第2編」(大蔵省、明治18年)
北海道大学北方資料室には、札幌牧羊場が設置された明治9年の写真が残されています。
(写真)札幌郡山鼻村牧羊場正面、明治9年頃
(北海道大学付属図書館蔵)
(写真)札幌郡山鼻村牧羊場側面、明治9年頃
(北海道大学付属図書館蔵)
明治15年になると、開拓使の廃止に伴いエドウィン・ダンも去ってしまいました。また、現在の北1条通から南1条通の間は、「桑園」から「札幌牧羊場」に編入されました。
札幌牧羊場の廃止
しかし、伝染病や寄生虫で、ここでの牧羊事業は頓挫してしまいます。
明治21年(1888年)に、北海道庁は札幌牧羊場を廃止し、綿羊130頭が真駒内種畜場に移されました。その土地は入札法を以て藪惣七に払い下げられました。(「札幌区史」、明治44年7月)
藪惣七に払い下げられた元札幌牧羊場の土地
(明治29年地形図)
明治31年10月29日の北海道毎日新聞に「深谷鉄三郎氏の談(四十九)」で、綿羊場のことが記載されていますので紹介いたします。
『次は酒田県の綿羊舎です。
これは南七条の十一丁目より十二、三丁目の間の處を申したので、今の師範学校の有る所の両側を云ったものです。其れは、松本判官の時分に、同判官は庄内の人であるので、同所の士族が松本判官へ奉公のため、農具まで持って参って開墾
是等は恐らく其の由来を知らぬから起こる話ですから、充分取り調べた上、処分をしないと折角の功績を没する様なことができます。』
真駒内種畜場から月寒種羊場へ
真駒内種畜場に移された羊たちは、その後どうなったでしょうか?
明治39年に農商務省により羊ヶ丘の地域に月寒種牛牧場が設立され、以降、牛や豚、綿羊などの研究施設となりました。大正8年には牧場内に独立した「種羊場」が設置され、大正13年にはそれまでの「種羊場」の用地が拡大され、100haもある広大な「月寒種羊場」となり、昭和21年まで続きました。
移転してきた師範学校
明治27年9月1日、南1条西15丁目に北海道尋常師範学校の新校舎が完成し、それまであった南3条西7丁目(旧・創成学校)から付属小学校と伴に移転してきました。
移転してきた師範学校
(札幌市街之図、明治32年)
(写真)札幌師範学校、撮影時期不明
(札幌市公文書館)
(絵葉書)付属小学校、昭和11年7月
(札幌市中央図書館デジタルライブラリ)
上の札幌師範学校の写真については撮影時期が不明ですが、後の写真を見ると敷地の周囲には背の高い樹木が立ち並んでおり、この写真ではまだ樹木も育っていないようですので、建てられて間もない頃の写真のようです。
大正7年頃の札幌師範学校
(「札幌開始五十年記念写真帳」、北海道大学付属図書館蔵)
「さっぽろ文庫23 札幌の建物」には、札幌師範学校のことが次のように書かれています。
『新しい校舎は南一条西十四~二十丁目を敷地に選び、三年後の明治二十七年(1894)再建された。このあたりはまだまったくの町はずれだったのである。
校舎は北側、南一条通りに面して建てられた。本館は木造二階建て、中央をやや高くして均整をとるデザインであった。背後にはやはり二階建ての寄宿舎を設け、廊下でつないでいた。師範学校は全寮制であったから、寄宿舎は特に充実していたのである。東側には屋内体操場を介して付属小学校が建てられた。
その後も増改築が続き、大正期には、寄宿舎を西側に移し、そのあとに付属小学校を配置するように変えられている。これらの校舎群も大正末にはすっかり老朽し、ようやく全面的な改築計画がたてられるようになった。
昭和四年(1929)、南二十二条西十四丁目に敷地を移し、新校舎が落成した。』
大正11年7月、皇太子時代の昭和天皇が来道し、札幌師範学校を訪れました。その時の写真が残っています。
(写真)札幌師範学校前における市民の奉迎、大正11年7月12日
(「皇太子殿下行刑記念写真帳」、北海道大学付属図書館蔵)
南一条通りの両側には多くの市民が立ち並び、皇太子殿下が来られるのを今か今かと待っているようです。
道路には既に電車が通っており、現在の南一条通りよりも広く感じるほど遠くまでよく見え、右側が師範学校、左側には大きな民家が立ち並んでいますが、当時の地図によると商家が多かったようです。
師範学校前の商店
「札幌市制紀念人名案内図」(大正11年5月)
札幌鉱務署が移転してきた
皇太子殿下時代の昭和天皇が師範学校を訪問した1ヵ月後の大正11年8月、南1条西18丁目に、札幌鉱務署が移転してきました。
移転してきた札幌鉱務署
最新札幌市全図(大正14年)
(写真)札幌鉱山監督局
(「札幌市写真帳」、北海道大学付属図書館蔵)
大正11年8月10日の北海タイムスの記事「鉱務署の移転」によりますと、『札幌鉱務署においては、悠々本日、過日落成式を挙行したる市内南一条西十四丁目二百九十番地(通称西十九丁目)新築庁舎に移転することとなれり』とあります。
大正14年の最新札幌市全図に描かれた「鉱務署」の位置が実際とは異なっています。また、上の新聞記事には「通称西十九丁目」にできたと書かれていますが、実際の所在地は西18丁目でした。
また、当時、南一条西十八丁目の正式な住所は、南一条西十四丁目だったようです。というのも、この土地は札幌師範学校の一角でしたので、ここの住所は師範学校と同じ住所だったということでしょう。
北海タイムスの記事「郊外繁盛記、円山、桑園(その三)札幌の西端付近(昭和2年8月28日)」を読むと、当時のこの付近の様子がよくわかります。
『藪の小住宅
大体、鉱山監督局が、北の、今の植民学校になっている建物から同所に移転した時、大概の人はまず呆れた。所もあろうに、何だってあんな町端に行ったか、分からなかった。全く、そこは札幌府だか、円山村だか、ちょっと見ただけでは区別がつかない野原であった。で、中には、鉱物署(元のままの俗称)が円山に行ったと言っている者さえあった。
本社の担当記者でさえ、随分こぼしたものだ。「馬鹿にしてやがる。あんな郡部まで毎日材料取りに行けるかい」と憤慨していた。それほど、遠い、郡部の感じを与えたもので、何としても、札幌市中とは思えなかった。』
この後、鉱務署はどうなったでしょうか?
正確なことは分かりませんが、凡そ次のような経緯をたどって、平成元年8月に北8条西2丁目にある札幌第一合同庁舎へ移転したようです。また、写真にある鉱山監督局の建物は平成元年まで使われていたようですが、その後何時解体されたのかもわかりません。
大正13年12月 | 鉱務署を札幌鉱山監督局に改称 |
昭和19年5月 | 北海鉱山監督局に改称 |
昭和20年5月 | 商工省が発足し、北海地方鉱山局に改称 |
昭和21年1月 | 北海地方商工局に改称 |
昭和22年6月 | 札幌商工局に改称 |
昭和24年5月 | 通商産業省が発足し、札幌鉱山保安監督部に改称 |
昭和37年4月 | 札幌鉱山保安監督局に改称 |
平成元年7月 | 北海道鉱山保安監督局に改称 |
平成元年8月 | 北8条西2丁目にある札幌第一合同庁舎へ移転 |
師範学校の移転と武徳殿の建設
南22条西14丁目に建設中だった鉄筋コンクリート造の新校舎が昭和4年9月に完成し、10月21日から引っ越しが行われ、29日から新校舎での授業が開始されました。
移転したのは師範学校だけで、付属小学校は南2条西14丁目の二条小学校があるあたりに終戦後の昭和25年まで残っていました。
昭和6年、師範学校跡地の南2条西16丁目に、北海道庁警察部内にあった大日本武徳会北海道支部により武徳殿と弓道場が建設されました。
昭和5年9月16日の北海タイムスの記事「師範学校跡にモダン武徳殿」によりますと、武徳殿を建築するに至った経緯がわかります。
『道庁警察部では、昭和三年の秋、石川警察部長時代に十万圓を投じて武徳殿を札幌に建設することに、全道警察署長会議で決定し、その後全道の各警察署が中心となって建設基金募集のため、委員を嘱託し、極力募集に努めていたが、最近基金も大部分集まったので、本年度中には地鎮祭を挙行すべく、着々準備を進めている。
しかして、最も難問題とされていた建築敷地は、市役所と折衝しつつあったところ、このほど南一条西十五丁目の元札幌師範学校跡と決定した。
建物も最初は京都武徳殿と同様なものによる筈であったが、これを変更し、鉄筋コンクリートのモダンなものを建てることになったそうである。』
昭和6年8月15日には、武徳殿の上棟式が行われました。(昭和6年8月16日、北海タイムス「武徳殿、上棟式」)
師範学校の跡地にできた武徳殿
「新しい札幌市の地図」(昭和6年)
(写真)大日本武徳会北海道支部、武徳殿
(「札幌市写真帳」、北海道大学付属図書館蔵)
昭和6年の建設以来、武徳殿は永い期間この位置にあったようですが、昭和53年12月2日の北海道新聞を読みますと、『柔・剣道の殿堂「武徳殿」、惜しまれながら取り壊されることになった武徳殿』との記事を見つけました。
私が札幌で暮らしていた時はまだ武徳殿が建っていたことになりますが、残念なことに武徳殿の記憶はありません。恐らく、何度も見ていたものと思いますが、この付近には札幌医科大学の大きな建物があったため、武徳殿の記憶が残っていないのではないかと思います。
協会病院の開院
昭和6年7月、札幌逓信診療所(後の札幌逓信病院、現在のNTT東日本札幌病院)が南1条西15丁目に移転してきました。
昭和7年3月28日には、南1条西16丁目の武徳殿の北側に、北海道社会事業協会附属病院(通称、協会病院)が開院しました。
近くの大通西19丁目には古くからの円山病院はありましたが、これらの病院は南一条通り南側一帯の土地に初めてできた病院でした。
3月27日の北海タイムスの記事「社会事業協会附属病院落成して愈々開院」によりますと、『院長は元創成病院長菅原博士で、診療科目は内科、外科、小児科、泌尿科、性病科、婦人科、産科、耳鼻咽喉科を網羅、歯科も四月初旬開設の予定になっている。尚、同病院は社会政策を基調にしているので、診察料、薬価等も非常に安く、左の如くである。・・・(途中略)・・・尚、同病院は勿論、受診者の範囲は限定していないので、誰でも診療を受けることが出来、担当医師は院長共に七名、看護婦は九名、看護婦助手は十五名を擁し、病床は六十、レントゲン、太陽燈の設備もあり、外科手術室も備わっているので、設備は殆ど間然するところがなく
協会病院
札幌市鳥瞰図(昭和11年)
(写真)社会事業協会附属札幌病院
(北海タイムス、昭和7年3月27日)
開院1年後には、『爾来、患者殺到し、殊に近時、地方よりの患者も相当に多く、現在の設備では益々狭隘
また、昭和12年5月23日には、『昭和七年三月創設されてより今年で満五か年を迎えるので、本月二十三日札幌市公会堂に於いて、各官公衙代表有志参列の下に、五周年記念を挙行することとなった。尚、創設以来、社会医療に殉職せる同病院職員並びに看護婦諸氏のため、同日午前中は病院に於いて慰霊祭が行われる筈である』とのことです。(昭和12年5月19日、北海タイムス「札幌協会病院、五周年記念式」)
このように開院以来十数年を経過した社会事業協会附属札幌病院でしたが、昭和20年3月に、北海道立女子医学専門学校の附属病院として、北海道に移管されました。
協会病院から女子医専、そして札幌医科大学へ
女子医専の誕生
日中戦争以降、多くの医師が軍医として召集され、手薄となった国内の保健・医療面の担い手として女医を養成することとなり、昭和19年12月、北海道立女子医学専門学校の設立が認可されました。
校舎は南4条西17丁目にある北星高等女学校を強制的に借り上げ、社会事業協会附属札幌病院を同校の附属病院とし、昭和20年7月1日に開校式と入学式を行いました。しかし、その直後に敗戦となってしまいました。(「新札幌市史」第5巻 通史5上)
北海道立女子医学専門学校(女子医専)
札幌市観光鳥瞰図(昭和25年)
女子医専附属病院と武徳殿
(米軍、昭和23年4月22日)
昭和22年の学制改革により、医学校は医科大学のみとし、専門学校は廃止すると決定したことから、女子医専は二期生を最後に生徒募集を中止し、昭和26年3月20日に第二期生30名の卒業式をもって終校しました。(「新札幌市史」第5巻 通史5上)
四日、厚生省から発表された第十回医師国家試験で、蛍雪六年、本道初の女医さん七十八名が誕生。道立札医大では白衣の女医さんたちが大野学長や西野道衛生部長を囲み、“全道一の合格率でこんなうれしいことはありません”と大喜びだった。
道立女子医専が誕生したのは昭和二十年四月で、当時入学したのは百二十名だったが、六年の間に家庭の事情やお嫁入などで三分の一が退学あるいは死亡し、八十四名が戦前、戦後の苦しい学生生活を終えて昨年四月に卒業、一年のインターン生活を経て七十八名が一本立の医者になった。最年長者は三十五歳、なかには夫がアッツ島で玉砕したという未亡人もあり、最年少者は二十二歳。
札幌医科大学の誕生
昭和26年に廃止された女子医専ですが、その前年の昭和25年には女子医専に代わる札幌医科⼤学の設立が認可され、第一期⽣が入学、新制医科大学の第一号としてスタートしました。(「新札幌市史」第5巻 通史5上)
道立女子医専は四月からわが国でははじめての専門学科のみ修学年限四ヶ年の新制医科大学に昇格することに内定。大野清七学長以下七名の教授陣も決って、文部省の正式決定を待っているが、設備内容ともに北大医学部に劣らないものが準備されており、医師の数の最も少ない本道において大きな役割を果たすものと期待されている。
札幌医科大学(道立)の構想は、男女共学で新制大学の教養学科二ケ年を終えた学生四十名を収容、専門の医学を教育することになっているが、卒業生のない今、明年にかけては白線浪人救済のため旧制高校、旧制大学予科卒業生を入学させる予定であり、四月から開講する学科は解剖、生理、生化学、病理の四学科で、六百坪総二階の研究棟、〇〇研究棟、階段教室もほとんど完成、本道にない大理石の病理解剖台、学生一人につき一台の学生用顕微鏡も準備されている。
教授陣容は学長大野清七(女子医専校長)、解剖=山崎春雄(北大名誉教授)、渡辺左武郎(女子医専教授)、生理=永井〇男(女子医専教授)、病理=新保幸太郎(北大助教授)、生化学=大野公吉(北大助教授)、内科=〇本庄蔵(女子医専付属病院長)、小児科=南浦邦夫(北大助教授)、産婦人科=大野清七学長兼務の各教授が決定している。
同校ではさらに今春から不燃性四階コンクリート千坪の校舎を建築にかかるほか、札幌郡北広島村にサナトリウム、札幌市円山に精神病院を建て、現在の附属病院を百ベッド拡張し、また学生がすべて入寮できるように寄宿舎も増築することになっているので、女子医専当時とは比較にならない充実した医科大学になるものとみられている。
(写真)発足当時の(昭和25年)札幌医科大学校舎前面
(北海道新聞)
上の写真は「札幌医科大学校舎前面」とのことですが、昭和29年6月30日の北海道新聞には同じ建物が「札幌医科大学付属病院」と書かれています。この建物は、私が小さい頃によく見ていた建物と思いますが、先に紹介した「社会事業協会附属札幌病院」と同じ建物ではないでしょうか?
高校までしか札幌にいなかったので、これ以降のことは残念ながらよく知りません。
最後に
昭和の初め頃のこの付近のことが書かれた新聞を見つけました。
郊外繁盛記、遊園地・山鼻(その3)住宅地の先進地(北海タイムス、昭和2年8月14日)
図面で見ると遊園地
その筈だ。考えてみれば藪のビルディング
師範学校がこんど山鼻に移転すると騒いでいるが、元々あの学校は山鼻にあるのではないか』といった人がある。成程考えて見れば理屈だ。師範のあの辺一帯も山鼻に相違ない。それから東屯田方面は、東本願寺以南、東は豊平川に至るまで、一帯の地が山鼻、遊園地になっている。尤も
殊に私達の子供の頃は、山鼻といえば純然たる村落であった。山鼻の友達から『唐黍
この記事の中にある『藪のビルディングの横丁が、西屯田の入口』ですが、「西屯田通り」と言って昔はお店がたくさん立ち並んだ賑やかな通りでした。
現在の西屯田通り入口
左側の建物が「藪のビルディング」、現「三誠ビル」
(写真)かつての賑やかな西屯田通り、南9条付近
(北海道新聞、昭和36年10月21日)
平成7年頃、南1条西13丁目の西屯田通りの入口付近を散歩したことがありますが、その時はまだお店がたくさんあってかつての西屯田通りの雰囲気が残っておりました。
さらに、この記事の中にある『林の牛舎』ですが、大正11年の地図に林牧場を見つけることができました。
「林の牛舎」(林牧場)があったところ
(札幌市制紀念人名案内図、大正11年5月)
続きまして、明治28年生まれの山鼻屯田兵の二代目、太田武氏の「山鼻の思い出」から、その一部をご紹介します。
山鼻の思い出(さっぽろ文庫2、「札幌の街並」)
当時の札幌の中心街は、朝夕こそ人通りがあったが、日中は停車場通り
石山通りに馬鉄が走り始めたのは明治四十二年のこと、いわばこの頃が山鼻の文明開化とでもいうべきだろうか。大正七年開道五十年記念博覧会開催の年に、都心の馬鉄は電車に切り替えられたが、私にとっては、石山通りや停車場通り、南一条通りなどを、箱馬車がラッパを鳴らしながら走っていた時代がなつかしい。
二条小学校とNTT東日本札幌病院
(南1~2条西15丁目)
札幌医科大学と付属病院
(南1~2条西16~17丁目)
札幌鉱物署跡
(南1~2条西18丁目)