札幌スキーのむかし

 私が札幌でスキーを始めたのは幼稚園の少し前、父が家の前に小さなスロープを造ってくれて、そこを転びながら滑っていると、隣の家のおじさんが笑っていたのを覚えています。

 小学校に入学すると、知事公館内の川の跡の地形を利用したスロープで、毎日のように滑りに行きました。また、休日には、荒井山など円山周辺のスキー場に行ったりしていました。その頃(昭和の中頃)の円山周辺の斜面は至る所スキー場でした。


 札幌でスキーが始まったころのことや、どのように発展していったのか知りたいと思いましたが、適当な資料もわからないので、新聞記事などから調べてみることにしました。

札幌でのスキーの始まり

 札幌市中央区のホームページ「歴史の散歩道」にある「荒井山」によりますと、『札幌にスキーが最初に持ち込まれたのは、明治39年と書かれています。明治43年には、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)のドイツ語講師として赴任したハンス・コラーが、学生の間にスキーを広めました』とあります。

 一方、大正15年11月25日の北海タイムスの記事「北大スキー部創立十五周年を迎えて」によりますと、明治43年ではなくて明治44年と書かれています。この時、コラー氏自身ですらスキーを使用することができず、当時の学生、稲田、小林、柳沢、板倉の各氏はコラー氏の許可を得て、南一条の馬橇屋に命じてスキーを模造させ、履き方や滑走方法はヘークやツダルスキーの著書をコラー氏に翻訳してもらい、滑り方を習得したとのことです。

 さらに、さっぽろ文庫7「札幌事始め」には、『明治41年北大に赴任したスイス人のドイツ語教師、ハンス・コラー教授がアルパインスキーを持ち込んだ。このスキーをモデルに学生たちが豊平橋付近の馬橇屋わが国初のスキーを作らせ、大学構内で練習した』と書かれています。

 北海道大学の資料によりますと、ハンス・コラーはチューリッヒ出身、明治41年から大正14年まで、北大予科のドイツ語教師でしたから、「札幌事始め」にあるように、明治41年頃から札幌でのスキーが始まったのではないでしょうか。

 また、北大の学生たちは大学構内から足を延ばし、三角山や山麓にあるナマコ山でスキーを滑ったようです。どうやら、札幌でのスキーの始まりは北海道大学構内で、スキー場の始まりは三角山周辺のようです。


今はなき三角山周辺のスキー場


スキーヤーでにぎわう宮本スロープとなまこ山(昭和42年)
(「三角山のスキーゲレンデ」、中央区歴史の散歩道)

スキーの始まりと新聞記事

 札幌でスキーのことが話題に上った最初の新聞記事は、明治45年3月25日の北海タイムスの記事「スキー術講和」のようです。

明治45(大正元年)年

 記事には、『区内一般学生のため、二十日午後二時、師範学校楼上の大講堂に月寒連隊より三瓶中尉出張して、スキー術に関する講話あり、其の構造及び練習法等を詳説し、了(終)って、同校後庭の小斜面にて実地滑走の型を示せりき』とあります。

 この新聞記事の前年、明治44年1月、オーストリアのテオド-ル・フォン・レルヒ少佐が新潟県上越市の陸軍第十三師団、翌45年2月には旭川の第七師団でスキー講習会を行いました。三瓶勝美中尉はこの講習に参加した後、非常に熱心に中学校、道庁、鉄道、郵便局関係者たちに教え、一般に普及したそうです。(さっぽろ文庫7、「札幌事始め」)

 明治45年4月5日の北海タイムスの記事「壮絶快絶なるスキーの演技」には、旭川第七師団の兵隊さんがスキー訓練として、三角山と羊蹄山のスキーによる登山と滑走、藻岩山への登山を実施し、三角山での練習後、手稲山を打ち越す予定であると書かれています。

 大正元年12月23日には、農科大学、札幌中学、北海中学、師範学校などによる連合第一回スキー練習大会がナマコ山で開かれ、その日の夜に「札幌スキー倶楽部」が設立されました。(北海タイムス「札幌スキー倶楽部」、大正元年12月30日)

大正2年

 この後、札幌スキー倶楽部主催によるスキー練習大会が頻繁に開かれますが、中でも大正2年2月16日、大通西5丁目に雪山を設けてスキーの講習を実施し、見物人で黒山を築いたと報道されています。(北海タイムス「大通雪山の滑走観者黒山を築く」、大正2年2月17日)

急激なスキーの発展

 この後、スキーに関する新聞記事は増加の道を辿ります。その中で、特徴的な内容だけをピックアップしてみました。また、新聞以外の資料の中からもピックアップしてみました。

大正4年

 1月、機械場(滝野の器械場のことでしょうか?)方面の郵便配達にスキーを試用しました。(北海タイムス「スキーにて配達」、大正4年1月30日)

 2月、円山と藻岩山の中間、山鼻奥の斜面で、農大スキー部主催による第三回スキー競技大会が開かれ、平地滑走や長距離滑降などのスキー競技を行いました。(北海タイムス「農大スキー大会」、大正4年2月19日)

大正5年

 ノルウェーに留学していた農科大学水産学科の遠藤吉三郎教授は新しいスキーと理論を持ち帰り、スキー部員を指導しました。(さっぽろ文庫7、「札幌事始め」)
 農大スキー部ではこれ以前から平地滑走を練習していましたが、これ以降、さらにジャンプへと発展することになりました。

大正8年

 北2条西11丁目にあった札幌高女では、校庭に雪の山を造ってスキーを楽しんでいたそうです。冬のスポーツとしては最も盛んだったと校長先生の言です。(北海タイムス「男もすといふスキーの滑走、札幌高女冬の運動」、大正8年12月17日)

庁立札幌高女、校庭でのスキー練習(昭和7年)
(札幌市公文書館) 

大正9年

 1月、北大スキー部主催により、札幌師範、北海中学、第一中学(現札幌南高)、第二中学(現札幌西高)、小樽商業など8校が参加して、札樽間のスキー駅伝競走が開催されました。(北海タイムス「スキーの駅伝競走」、大正9年1月20日)

 2月、円山南斜面(昔あった通称「双子山スキー場」周辺)で、札幌第二中学の全校生徒による二千メートルのスキーマラソン競技が行われました。(北海タイムス「昨日の札幌スキーマラソン」、大正9年2月8日)


「南斜面」と「双子山スキー場」があった所


昭和30年頃の双子山スキー場
(「円山百年史」円山百年史編纂委員会、昭和52年6月25日)

 この頃のスキー用具の値段ですが、スキー板については、金具、締皮、単杖(ストック)が着いて、樺材六尺四寸のアルパイン式が十八円十銭、同尺楓材ノルウェー式が十三円十五銭、オーバー・セーターは二十円位から四、五十円位、手袋スコッチ製が四円五十銭とのことです。(北海タイムス「スキー用具値段」、大正9年11月16日)

大正10年

 3月、新潟県の妙高高原関温泉スキー場の第一人者が、北海道スキー界の急速な発展を見学するため、来札しました。(北海タイムス「雪の越後からスキー界視察に」、大正10年3月6日)

 6月、北大スキー部の加納等が中心となって、本邦唯一のスキー雑誌「山とスキー」が発刊されました。発行所は、南1東4の其社でした。(北海タイムス「山とスキー(雑誌)」、大正11年1月28日)

山とスキー
(北海道大学山岳部・山の会) 

大正11年

 2月、円山東麓に札幌区による公設スキー休憩所ができ、土日曜の両日、スキーヤーのために炭火とお茶が用意されました。(北海タイムス「札幌公設スキーの休息所」、大正11年2月4日)

(写真)札幌円山東麓のスキー滑走
北海タイムス、大正11年1月31日
(札幌市公文書館)

大正12年

 2月10日、小樽で第1回全日本スキー選手権大会が開催されました。

 同じ月の北大スキー大会ではジャンプ競技が行われました。(北海タイムス「北大スキー大会ジャムプ」、大正12年2月22日)

 11月、北海道山岳会が円山神社裏のスキー滑走場(神社山にあったスキー場のことでしょうか?)を設置することになりました。(北海タイムス「スキー滑走場」、大正12年11月15日)


神社山スキー場があった所

 同じ月、山とスキーの会が主催し、独逸スキー映画会が市内錦座で開催され、場内はスキー愛好の学生達で身動きできないほど一杯になりました。(北海タイムス「独逸スキー映画は好評」、大正12年11月12日)

 12月、北海道山岳会が、三角山山麓にアプローチ24m、ランディング55mのジャンプ台を新設しました。なお、同地には、この時既に北大スキー部のジャンプ台がありました。(北海タイムス「愈々竣工した札幌スキージャンプ臺」、大正12年12月22日)

大正13年

 道庁の構内南門近くにスキー場を設け、1月7日午後4時より、各部、課長が出席してスキー場開きが行なわれました。(北海タイムス「道廳スキー場」、大正13年1月8日)

 1月18日から、全道の選手218名が三角山山麓に集い、北海道スキー選手権大会が開催されました。(北海タイムス「三角山麓に覇を争う」、大正13年1月19日)

大正14年

 北大スキー部主催の全国中等学校スキー競技大会が、2月1日から三角山山麓で挙行され、小樽商業が優勝しました。(北海タイムス「全国中学校スキー大会」、大正14年2月2日)

大正15年/昭和元年

 南一条西二丁目の中村時計店では、ツバメ印スキーを製造・販売し、新聞にその広告が掲載されています。


ツバメ印スキー
(北海タイムス、大正15年1月11日)

 界川1丁目にあった札幌温泉の周辺(温泉山スキー場のことでしょうか?)では、この数年前からスキー場として有名になっており、札幌温泉でもスキーの預かり所、スキー服の乾燥場、アーク燈による夜間の照明設備等の諸設備を整えているとのことです。(北海タイムス、「スキー場としての札幌温泉」、大正15年12月15日)


昔あった温泉山スキー場

昭和2年

 昭和2年3月24日の北海タイムスの記事「金ボタンを脱いで背広に代わる燻製さんと源ちゃん」によりますと、札幌スキー界を牽引してきた北大スキー部の名物男、廣田戸七郎(通称、燻製さん)と岡村源太郎(通称、源ちゃん)の二人が学生服を脱ぎ、医学の研究に専念するとの報道がありました。

 燻製さんは、ジャンプの理論家として権威でしたし、源ちゃんは北大スキー部の部長として、またノルディックの名ランナーとして活躍しました。


燻製さん(左)と源ちゃん(右)

 むかし、旭山記念公園から円山西町へかけての北西側斜面は、「げんちゃんスロープ」と呼ばれていたそうです。その由来を調べてみると、「札幌古地名考 13.げんちゃんスロープ」に、『スキー界の先輩、村井源太郎氏を偲んでこの名が付いたとされる』と書かれています。
 そこで、昔の新聞や国会図書館など方々調べてみましたが、村井源太郎という人のことを検索することはできませんでした。


昔、「げんちゃんスロープ」と呼ばれていた斜面

 私は、当時、新聞にも何度か名前が登場し、札幌ではスキーの選手として有名だった「岡村源太郎」に由来するものと思っています。さらに、「源ちゃん」は北3条西19丁目にあった札幌二中(現札幌西高)を卒業し、この付近に住んでいたようですので、「げんちゃんスロープ」を実際に滑っていた可能性もあります。ただし、「源ちゃん」がアルペンスキーではなく、ノルディックの名ランナーと知り、「げんちゃんスロープ」はどこまで本当なのか、疑問を抱いています。

 スキー選手として有名になった岡村源ちゃんでしたが、残念なことに、この年の10月に亡くなってしまいました。10月16日に、北大医学部学友会館の大広間で告別式が挙行されました。(北海タイムス「スキーの重鎮、岡村選手を送る」、昭和2年10月17日)

 亡くなった原因ですが、同年8月13日の北海タイムスの記事「派遣選手の六名とも雪国の出身者」によりますと、「爇性の病」(高熱のでる病気の総称。腸チフス・肺炎・敗血症・発疹チフス・天然痘など)とのみ記載されており、この記事が書かれた日には北大病院に入院中でした。また、この記事によりますと、岡村源ちゃんは昭和3年2月に開催されるサンモリッツ冬季オリンピックの選手の一人として派遣されることが決まっていましたが、残念ながら出場することはかないませんでした。

 続きます...

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