藪惣七と大通幼稚園

 西18丁目駅から東へ1丁ほど行った大通西16丁目に、私が小さいころ通っていた相愛幼稚園(現在の大通幼稚園)があります。この幼稚園の建物の横に古いお寺があったことが記憶の片隅に微かに残っています。


 最近、札幌の古地図を見ていましたら、この幼稚園とお寺を建てた藪惣七こと藪堯祐(やぶぎょうゆう)という人のことを知りました。
 藪堯祐という人のことや幼稚園のことなど、西18丁目の近くであった昔のことを調べてみたいと思います。


藪堯祐(明治38年8月)「北海道十字の光」

開拓時代の藪惣七

弘化四年(1847年)

 福井県坂井郡浜四郷村字野々村で穴田四郎右衛門の五男として生まれ、幼い時に親戚の藪権右衛門の養子となりました。(「豊平の歴史」中川昭一、北海学園大学学報)

明治7年(1874年)

 3月、三百金を携えて渡道し、札幌へやって来ました。(「大正五年、第三回全国五拾万円以上資産家調査」、時事新報社)
 最初、米穀荒物雑貨商を営みながら、開拓使や陸軍の土木建築を請負い、大儲けしました。(「豊平の歴史」中川昭一、北海学園大学学報)

明治18年(1885年)

 それまでのすべての職業を廃し、農業と金融事業を始めました。(「北海道人名辞典」、大正3年)

明治21年(1888年)

 北海道庁は、札幌牧羊場を廃止し、その土地は入札法を以て藪惣七に払い下げました。(札幌区史)

 明治21年7月1日の北海道毎日新聞の記事「札幌牧羊場」には、『豫(かね)て道庁より広告ありし、札幌牧羊場地所十五万四千〇百二十四坪餘と樹木並びに建家共有形の儘(まま)入札拂(はらい)の件は、彌々(いよいよ)昨三十日開札されたり。其の入札人は、札幌の藪惣七氏外二十餘名なりしか、何れへ落札せるや、未だ其の辺の事は分からず』とあります。
 なお、新聞記事にある札幌牧羊場の地所「十五万四千〇百二十四坪」の面積は、約51ヘクタール(0.51k㎡)になります。


払い下げられた土地(赤枠内=札幌牧羊場)
(明治29年地形図)

 そこで、かつての札幌牧羊場(上記地図の赤枠で囲ったところ)の面積を国土地理院の地形図で計測してみますと、約53ヘクタールとなりましたので、札幌牧羊場として使われた土地の大部分がこの時に払い下げられたものと思われます。
 なお、緑色で示した養蚕伝習所があった北1条通り沿いの西17丁目以西は、当初、山鼻屯田兵の共有地で、明治22年に札幌養蚕伝習所の敷地となり、昭和になってからは北海道庁の官舎が建てられたことから、払い下げられた土地に含まれていなかったのではないでしょうか?
 また、黄色で示した大通西19丁目にあった避病院も、その後円山病院となって、現在も札幌市の福祉関係の施設が集中していますので、これも払い下げられた土地に含まれていなかったのではないでしょうか?

明治24年(1891年)

 5月8日の北海道毎日新聞によると、『当区藪惣七、札幌郡江別村牛山民吉両氏は、空知郡幌向村字江別太に於て、耕地経営の見込みを以って、樹林地九万六千四十四坪』の貸下げが、去る4日に許可されたとあります。

 「北海道人名辞典」(大正3年)には、『宮崎、福井、石川各県から移民を招き一千町歩の耕地を有し、開墾に従事した』と記載されています。

 また、明治31年9月13日の北海道毎日新聞の記事「水害見聞記」によりますと、『同氏は幌向に農場を所有し、小作人六十余戸を有し、・・・』とありますが、この時、千歳川が氾濫し、大きな被害を受けたとのことです。

明治25年(1892年)

 資本金四万円を以て、札幌石材会社を創立しました。(時事新報社大正五年第三回全国五拾万円以上資産家調査)

石材会社と馬鉄

明治34年(1901年)

 この年、明治25年に設立した札幌石材会社を「札幌石材合資会社」という名称で会社組織にしました。


札幌石材合資会社
(日本全国諸会社役員録、明治35年)

明治35年(1902年)

 5月7日の北海タイムスの記事「馬車鉄道新設請願」には、『平岸村字穴の沢より山鼻村を経て南一条西十一丁目を横断する馬車鉄道を敷設して、石山より採掘する石材を運搬せんとの目的にて、同社長藪惣七氏より道庁に出願したる』とあります。

 明治40年の日本全国諸会社役員録によれば、明治35年12月に「札幌石材馬車鉄道合資会社」を設立しました。


札幌石材馬車鉄道合資会社
(日本全国諸会社役員録、明治40年)

明治38年(1905年)

 11月、札幌区会議員の定期改選があり、藪惣七が区会議員となりました。(「札幌区史」)

明治40年(1907年)

 7月、札幌石材馬車鉄道合資会社を改め、「札幌石材馬車鉄道株式会社」を設立しました。


札幌石材馬車鉄道株式会社
(日本全国諸会社役員録、明治43年)

明治42年(1909年)

 11月22日、石山~山鼻間の馬車鉄道軌道敷設の許可が下りました。

軌道敷設の許可証
(「札幌軟石の運搬③」、石切山街道まちづくりの会) 

明治43年(1910年)

 5月、最初に開業した路線(のちの石山線)は、山鼻(現在の南2条西11丁目付近)から石山通を南下し、藻南で豊平川を渡って穴の沢(現在の石山陸橋または石山緑地付近?)に至るものでした。主に石切山の軟石を運んでいましたが、当初から12人乗りの客車によって1日3往復の旅客輸送も行っていました。冬になると馬そりによる輸送に切り替えられました。(札幌石材馬車鉄道 – Wikipedia)


馬車鉄道株式会社と鉄道線
(札幌市街図、明治44年)

明治44年(1911年)

 感ずる所ありと仏に帰依し、名前を藪尭祐と改めました。(豊平の歴史)

 12月、所有する貸地の管理を行う藪合名会社を設立しました。


藪合名会社
(日本全国諸会社役員録、明治45年)

明治45年(1912年)

 7月、資本金を三十万円に増資し、札幌石材馬車鉄道株式会社を「札幌市街鉄道株式会社」と改め、札幌区内の各地域に路線を拡張し、馬50頭、馬鉄18台が常時運行していました。


札幌市街鉄道株式会社
(日本全国諸会社役員録、明治45年)

馬車鉄道
(札幌市公文書館) 

馬車鉄道の路線図
(「札幌軟石の運搬④」、石切山街道まちづくりの会) 

尭祐寺の建立

大正2年(1913年)

 5月31日の北海タイムスの記事「尭祐寺創立許可」によりますと、道庁から前日の5月30日に尭祐寺の創立が許可されています。
 藪尭祐は、札幌市街軌道株式会社の社長を辞任し、札幌区に「尭祐寺」を建立し、住職となりました。(時事新報社大正五年第三回全国五拾万円以上資産家調査)

 「さっぽろ文庫39 札幌の寺社」によれば、<大正2年5月 尭祐寺(本願寺派・大通西10)寺号公称>とあります。ただし、地図からみると、大通西16丁目の間違いです。


尭祐寺
(大正5年地形図、大日本帝国陸地測量部)


尭祐寺本堂
(大日本寺院大鑑 北海道・樺太版)

大正4年(1915年)

 10月17日、尭祐寺の本堂建立や仏具購入の費用に当てるため、それまで集めてきた書画、骨董、その他数百余点を競売しました。(北海タイムス「道具競売広告」、大正4年10月14日)

 同年、長男の庄太郎が名を改め、「藪惣七」となりました。なお、同氏は、北門貯蓄銀行㈱、北海道拓殖鉄道㈱、北海道無盡㈱、北海道土地㈱、渡島軌道㈱等の取締役のほか、ヤマト種苗農具㈱の監査役、藪合名会社の代表社員を務めました。(「人事興信録データベース」)

 「札幌市制紀念人名案内図」(大正11年5月)を見ますと、藪惣七の住所は南2条西12丁目にありました。ここには、同氏が代表社員を務める籔合名会社、弟の藪秀二の住居もありました。


籔惣七の住居と籔合名会社
(札幌市制紀念人名案内図、大正11年5月)

 これ以降の新聞の記事を見ていますと、「藪堯祐」と書かれた記事と「藪惣七」と書かれた記事が混在します。「藪堯祐」と書かれた記事は問題ないのですが、「藪惣七」と書かれた記事の中には、父の「藪堯祐」のことを書いた記事も多数見受けられますので、注意が必要です。

大正5年(1916年)

 電車を導入するため、社名を「札幌電気軌道株式会社」に変更します。

 時事新報社による「大正五年第三回全国五拾万円以上資産家調査」で、貸地家の藪尭祐が70万円で札幌で資産家の三番目になっています。なお、札幌で一番の五十嵐久助と二番の五十嵐佐市は二人とも貸金業でした。

大正6年(1917年)

 7月8日、尭祐寺の入仏式が開催されました。7月9日の北海タイムスの記事「尭祐寺入仏式」に、次のように書かれています。

 『札幌尭祐寺入仏式は、昨八日午後一時より予報の如く執行されたるが、当日、札幌近郊近在の参拝者、午前八時より同寺に詰めかけ、雑踏を極めたるが、定刻に至るや休息所なる藪合名会社より予定の行列を以って尭祐寺に繰り込み、昨紙所報の順序を追うて、荘厳裡に無事入仏の式を行い、住職の挨拶あり、餅撒を終わって散会したるが、来会者頗る多く、本堂内殆ど立錐(りっすい)の余地なき(=錐(きり)を立てるほどのわずかなあきもない)盛観を極めたり』

 翌10日の北海タイムスには、入仏式当日の写真が掲載されています。

盛んなりし尭祐寺入仏式
北海タイムス、大正6年7月10日
(札幌市公文書館)

大正7年(1918年)

 北海道知事の俵孫一より、開道50年記念に何とか電車を走らせてくれないかと懇請され、藪堯祐が資金を提供し、請われて社長に就任し、なんとか電車をはしらせました。(豊平の歴史)
 この時、札幌市街軌道株式会社を経営していた助川貞二郎では役に立たなかったのでしょう。

 この年発行された「札幌市街地図」に、尭祐寺の参道が載っています。


尭祐寺の参道
(札幌市街地図、大正7年)

 北海道柔道整復専門学校のホームページ「学校周辺の環境」によりますと、『現在の大通幼稚園の正面から札幌医大病院のある南1条までを貫く小道が、元はお寺の表参道でした。今は、地下鉄東西線のある南大通がこの地域のメインストリートになっていますが、市電が三越と円山を結んでいたころは、南1条通りが商業の中心だったのです』とのことで、私も、直ぐ向かいに札幌医科大学があるので、狭い通りにもお店があるのかと不思議に思っていました。


現在の尭祐寺参道跡
(正面突き当りが大通幼稚園)

 この当時、北1条通りは西20丁目までで、この少し後の大正9年までその先の道路はありませんでした。開拓使の時代から円山や小樽方面に行く道路は南1条通りだけでしたので、人通りの多い南1条通りに向かって表参道ができたものと思われます。
 大正7年当時のこの付近の道路は、この「参道」とお寺の東側を「細い道」が南1条から北1条まで通じているだけで、住居もほとんどない状態でした。

藪住宅

大正8年(1919年)

 6月26日の北海タイムスの記事「大通西十五丁目に模範部落の出現」によりますと、藪合名会社が、大通西15丁目に住宅難解決の第一歩として二百戸の貸家建築を計画中とのことです。以下、その記事の内容です。

 『本紙が連日に亘って、当区の住宅問題について当局者や知名の人々の意見等に、其の住宅難の実例を掲げて、此の重要なる問題の解決に努めつつある矢先、山内札幌(警察)署長及び阿由葉道議の両氏は、百の論議よりも実行の一あるのみと考え、大體(=大体)の案を立てた。

 それに依ると、借家人は警官、教員、一般官公吏という俸給で衣食する人々のみを借家人と定めるのであるから、見すぼらしい棟割長屋では借家人の品位を傷つける為、少なくも二戸一棟建で、玄関を入ると、二畳に六畳二間乃至(ないし)三間を備え、床の間から縁側、装飾窓等も設けて、所謂(いわゆる)有識者の体面を保つ上に遺漏なきを期するという方針の下で設計を立てた。

 冷たい血の流れている暴利家主なら、此の設計で行くと、直ぐ十四円乃至十六円は吹くが、是は営利を度外にし、且つ、設計家賃等、本邦の各都市に向かって、其の模範を示そうという点より、家賃は高くも四円位にしようというのだから、両氏の苦心は容易ではない。

 それには大地主で、義侠心にも富む資産家の同情に訴えるより外はないので、此の条件に当て嵌まった資産家の物色には多大な苦心を払った末に、白羽の矢は札幌区内藪合名会社代表社員藪惣七氏に当たった。

 藪氏は山内、阿由葉両氏の言を傾聴した後、「社会公共の為に、一肌脱いで見ましょう」と快諾し、同会社所有大通西十五丁目の広漠たる土地と二百戸の建築費を提供し、地賃は一切取らぬ事というのを条件に諸経費総掛に対し、月七朱以内の家賃を徴収することに定め、一両日前に愈々(いよいよ)双方間に於いて、覚書に調印を済ました。

 此の籔氏の美しい話を聞いた区の建築請負業新開新太郎氏は、「夫なら、私が一切其の工事の監督をしよう」と義侠的の申し出でがあったので、両氏は目下、原木払下出願やらその他の手続きに全力を挙げて取り急ぎつつあるから、日ならずして工事の着手を見ることであろう。

 全部の落成は本年十月から十一月上旬であろうが、仮に一戸五百円(二戸一棟千円)の投資として七朱、即ち〇に家賃一ヶ月三円五十銭であるから、家主の横暴に泣く人々は仏の袖に縋るの思いがあろう。

 右に関し、阿由葉氏は曰く、「此の部落内には軍隊の酒保的廉売所や共同電話を設ける予定だ。尚、独身者の為に合宿所も建てる考えである。区の中央とは少しく離れているが、師範学校前の電車停留所迄、僅かに一町半位しかないから、さのみ(=それほど)不便でもあるまい云々」。

 尚々、此模範部落が出現し、続いて第二、第三とこれに倣って建築され、続々従来の古巣を見捨てて、引き移るようになるのも遠い将来ではあるまい。斯くて、暴利家主の恐慌に泣く日は来るであろう。』

 この新聞記事にもありますように、この数年前から地価の上昇と住宅の不足に関する新聞記事が多数見受けられます。この計画は、札幌における大規模な住宅開発の先駆けであったようです。この事業により、この付近の人口が急増したものと思われます。

 12月21日の北海タイムスの記事「藪家の施米」によりますと、『札幌南二条西十二丁目、藪合名会社藪惣七氏は、年末に際し諸物価高騰の折々なれば、区内の細人一百名に対し、一名に餅米二升迄施米すべく、分配方を札幌警察署に申し出たるが、同署にては家族多く生活困難の家を選んで分配の方針なれば、心当たりの人は電話又ははがきにて本署へ通知ありたしと』とのことです。

大正9年(1920年)

 11月19日、南3条西1丁目にあった株式会社帝国館の社長に、藪惣七が就任しました。(北海タイムス「籔氏就任披露宴」、大正9年11月18日)

大正10年(1921年)

 1月9日の北海タイムスの記事「完成した札幌新住宅」によりますと、藪合名会社が大正7年頃から計画していた賃貸住宅の建設が一段落したようです。

 『住宅払底を緩和すべく札幌藪合名会社が大正七年来企画せる大通西十六丁目の新築住宅百二十戸は既に完成し、極少部分を除いて一般の居住する所となっているが、当初の目的を貫徹さする爲、或る意味の理想村にしよう爲、昨八日午後二時から、尭祐寺に居住者と籔氏との協議会が開かれたが、道庁よりは亀山社会課属、区役所よりは佐瀬庶務課長、其の他、各新聞記者列席し七十名の集会で、阿由葉氏は模範自治団とす可く、実費診療所、共同浴場、購買組合の組織をし度く、其爲、集会を願った旨を述べ、山内警察署長を満場一致で座長に推して、結局、東西に亘る十戸乃至十四戸の一団より部長を選任する事とし、怱(たちま)ち可決されたが、山内署長は種々将来に対して注意を試み、梁田道民子の新築迄に至る経過、亀山属の祝辞等があって、饗応の酒肴で小宴を催され、三時三十分頃終了したが、同住宅は種々の施設に対して住民本意主義を採り、之に就いては山の内署長や阿由葉宗三郎氏等が極力斡旋の労を取る筈(はず)で、既に共同電話も近く開通する筈で、浴場は組合の好意に依って四割引きをする事になったというが、住宅問題も之が導火線となって改善されるように努むると言えば、其の抱負は既に覗われる訳である。』

 賃貸住宅120戸(二軒長屋で60戸)を建てたとすると、記事にあるように大通西15丁目あるいは16丁目だけでは無理で、この付近一帯に賃貸住宅が建てられたものと思われます。
 住宅が建てられてから27年後の1948年に米軍によって撮影された空中写真を見ると、藪氏の所有地だった大通西15丁目から18丁目にかけて、同じような住宅がたくさん建っているのを確認することができます。黄色で囲ったエリアだけでも二軒長屋約60戸の住宅が建っています。


藪合名会社の賃貸住宅群
(米軍によって撮影された空中写真、1948年4月22日)

 この二軒長屋の一軒(ただし、半分だけ)が平成22年頃まで残っていましたが、その後取り壊されてしまったようです。


唯一残っていた藪住宅(平成22年8月)

 8月、藪惣七の厚意により、財団法人札幌大化院を南1条西17丁目に移転、新築しています。
 社会福祉法人 札幌厚生会(元財団法人 札幌大化院)のホームぺージには次のように書かれています。

 『社会福祉法人 札幌厚生会は、大正元年9月15日、札幌市の実業家助川貞二郎夫妻が、恩謝の慈悲を記念し、市内北1条西2丁目に平屋建て1棟を設け、札幌記念保護会と称し、引取り人の無い釈放者の収容保護したことに始まります。大正10年8月に、地主藪惣七の厚意により、南1条西17丁目に移転、新築し、事業を継続しています。昭和4年10月、初代院長貞二郎氏の死去に伴い、貞利氏が三代目院長に就任しました。戦中、戦後の一時期には軍需工場の不良工員練成場宿泊施設に転用されたり、樺太引揚者の収容所に利用されるなどの曲折がありましたが、昭和24年からは本来的対象者の激増に対応すべく、とりあえず荒廃したままの状態で、市内唯一の緊急収容保護施設として積極的に業務を再開しています。』

藪住宅周辺に商店街出現

大正11年(1922年)

 3月31日の北海タイムスの記事「藪特設商店 互助組合組織、本日より実行」によりますと、藪氏の賃貸住宅付近にたくさんの商店が開店し、住民へ廉価で各種商品を提供するための実行方法と組織を立ち上げました。以下、その記事の内容です。

 『当区大通西十五丁目以西の藪氏住宅付近は、近時、著しく各種商店の開店を見たるが、これら商店は住宅居住者の爲、何らかの社会奉仕を為す目的を以って、有志寄々協議中の處、この程、藪特設商店互助組合なるものを組織し、各種商品を市内一般の標準価格より一割以上の安価にて、住宅居住者及び区域内居住者に供給することに申し合せたるが、之が実行方法として、貯金部を設け、一人一口以上として、一口の金額を一日十銭宛徴収、北門貯蓄銀行に預金し、その資金を以って各種の商品を直接卸し問屋より受け、以って安価に供給すると云う。因みに、現在の組合員は二十四戸にして、組合長に植木敏郎、組合副長に岡野要吉、幹事に勝部直往、本庄庫松、稗田愼造の諸氏当選し、貯金部は部長に植木敏郎、組合副長に岡野要吉、評議員に本庄庫松、勝部直往、稗田愼造、幹事に斎藤元橘、山口良蔵、岡〇惣吉の諸氏当選。本日より直ちに実行する由にて、各町に投票箱設け、消費者の批判を聴取し、以って一歩々改善すべしと。』

 大正11年5月発行の「札幌市制紀念人名案内図」に、藪住宅の周辺に出現した商店街が詳しく描かれています。特に、大通西16丁目と17丁目の間を通る17丁目通りの両側には、たくさんの商店が並んでいます。


十七丁目商店街
(札幌市制紀念人名案内図、大正11年5月)

 大正7年の堯祐寺の参道でご紹介しました「札幌市街地図」(大正7年)を見ますと、この付近の道路はまだ開削されていませんでした。それが、上記の地図を見てお分かりのように、大正11年5月にはほぼ現在に近い道路と市街地が出来上がっています。

 上の新聞記事にある「藪特設商店互助組合」ですが、緑色の矢印の先、北一条通りに面した大通西17丁目の南東の角にある「特設商会」がそれではないでしょうか?

 大正12年8月31日、北日本商工社発行の「大正12年版北海道職業別電話名簿」によりますと、特設商会の代表者は藪惣七、住所は大通西十七ノ一、業種は米穀荒物となっています。

 私が小さい頃、この17丁目通りの両側にはお店がいっぱい立ち並び、賑やかな商店街でした。


17丁目商店街の今(西17丁目通り)


昔からある文房具屋さんの一心堂(大通西17丁目)

藪住宅の完成

大正12年(1923年)

 大正8年頃から始まった藪住宅の建設事業がほぼ完了したため、藪合名会社では5月3日夜、関係者並びに新聞記者等を豊平館に招き、報告会を開催しました。大正10年には120戸の住宅が建築されていましたが、最終的には大通西15丁目以西に約160余の住宅を建築したそうです。(北海タイムス「特設住宅報告会」、大正12年5月5日)

 戦後、大通西17丁目の藪住宅に住んでいた村井祐児という人が、「さっぽろ文庫69、思い出の札幌」に、藪住宅での思い出が書かれていますので、その一部をご紹介します。

 『戦争で東京の家が丸焼けとなり、母の里に戻ったわけですが、親戚を転々として引っ越し七回、ようやく落ち着いたのが大通西十七丁目。医大病院前から歩いて三分。あたりは、屯田兵時代(?)の二軒長屋が広い道に整然と並び、我が家もその1/2軒。

 家々の前には勝手に公道にはみだして花壇が様々に作られ、家とその花壇の間が自然の歩道になり、通学の子供達も隠れてしまうほどの緑でした。秋には赤トンボが顔にぶつかりそうになるほど飛んできて、キャッチボールも気兼ねするほど。冬が来る前にはホワホワと雪虫が、雪より柔らかに飛んで、淋しさと静けさを予告した。

 雪が降ると各々の家の前にはスキー用の雪山と子供達の雪のお城が出来た。道は広かったんですね。総て車社会の来る前の風景です。僕は雪道に落とし穴を作るのに命をかけていた。危ないので、勿論そんなに深くはないのですが、危険を感じさせない周囲の何気なさ等、今まで作ったものの中で一番の出来。人の落ちるのを、お城の小さな窓から見て大喜びしていたものです。』

藪商事ビルと円山通郵便局

大正13年(1924年)

 3月6日、藪合名会社のグループ企業の一つとして、東京に北海道物産館を出展する「藪商事株式会社」を創立し、南1条西13丁目に鉄筋コンクリート造りの「藪商事ビル」を建設しました。(「住宅産業新聞」平成26年1月1日号)


藪商事株式会社
(日本全国諸会社役員録、大正15年)


旧藪商事ビル、現在の三誠ビル
(南1条西13丁目)

 社長の藪秀二氏は明治15年8月に安達友平の四男として生まれましたが、その後、藪堯祐の養子となり、明治36年に分家しています。(「人事興信録データベース」)

 4月22日午後4時から尭祐寺太子堂の建立式が開催され、記念の餅が配られたほか、夜は活動写真が上映されるなど、多くの人で賑わいました。(大正13年4月24日の北海タイムスの記事「尭祐寺太子堂建立の賑わい」)

尭祐寺の太子堂建立式
北海タイムス、大正13年4月24日
(札幌市公文書館)

 7月3日の北海タイムスの記事「円山通開局祝賀」によりますと、7月1日、南1条通り沿いの西18丁目に「円山通三等郵便局」が開局し、藪惣七が局長に就任します。

 『札幌市南一条西十八丁目円山通三等郵便局は、昨一日より開局し、藪惣七氏局長に任命された。籔氏、一日午後四時より、逓信局並びに市内有志を豊平館に招待し、祝賀会を開催した。
 出席者は、逓信局松倉監督課長、唐松経理、清水庶務課長、村山、菅井、若狭各書記、郵便課長市内三等郵便局長、阿由葉宗三郎氏及び本社、小樽記者、其の他二十余名あり。
 食卓に着くや、藪惣七氏挨拶を述べ、松倉監督課長、松宮五條局長祝詞を述べ、宴に入り、祝杯を挙げ、各出席者に記念品を贈呈し、七時盛会裡に散会した。』

 南1条西18丁目に今もなお、「南1条西郵便局」がありますが、私もよく利用させていただきました。

大正15年(1926年)

 10月5日の北海タイムスの記事「円山局長更迭」によりますと、『札幌市円山通郵便局長・藪惣七氏は依願免官となり、後任に岩城其一氏任命された』とあります。

藪銀座と大通公益市場

昭和2年(1927年)

 この年、札幌市が「札幌市街軌道株式会社」を買収し、札幌市電となりました。(豊平の歴史)

 11月22日の北海タイムスの記事「大通公益市場、本日から開業」によりますと、17丁目通り商店街の一角に、大通公益市場が開業しました。

 『藪住宅付近の居住者が兼ねて希望しつつあった札幌大通公益市場は、尭祐寺の西側、藪の銀座と称せらるる西十六丁目停車場から北へ向ふ通りに建築中。過日、落成を告げ、又場内の営業者も募集中の處、この程満員となったので、二十二日藪太子講の祭典の日を期して、花火を打揚げ、餅撒き、自動車の宣伝をすると共に、華々しく開業する事になったが、当日から三日間は福引景品等を添へる由(よし)。』

 大通公益市場が開店した昭和2年当時、市電西16丁目停留所は西17丁目通りの近くにありましたので、『藪の銀座と称せらるる西十六丁目停車場から北へ向ふ通り』とは西17丁目通りのことで、大通公益市場は西17丁目通り沿いに建設されたということでしょう。

 さっぽろ文庫7「札幌事始め」および「札幌市史」には、大通公益市場が大通西17丁目にあったことが記載されていますが、「北海道の商工要覧 昭和11年版」を見ますと、大通公益市場の住所は南大通西16丁目1番地」になっています。
 また、「札幌商工営業者名鑑 昭和16年度」によれば、西17丁目通りの両側(南1条から北1条までの西16および17丁目)に44店舗(重複は除く)あり、この内「店舗の創業日」が大通公益市場の開店日(昭和2年11月22日)と同じなのは1店舗だけでしたが、南大通西16ノ1と同じ住所の店舗は44店舗中10店舗で、最多でした。
 ただし、10店舗全てが市場内にあったわけではなく、店舗数は10店舗以下だったでしょう。

 私が小学生の頃には「大通公益市場」は既にありませんでしたが、昭和23年4月に撮影された空中写真を見ますと、南大通西16丁目1番地(赤色の四角で囲ったところ)には大きな建物は見られませんので、規模の小さな市場であったようです。


大通公益市場があった南大通西16丁目1番地
(昭和23年4月、米軍による空中写真)

尭祐幼稚園から大通幼稚園へ

昭和3年(1928年)

 1月 藪尭祐が死去しました。(「藪尭祐」、さっぽろ文庫50 「開拓使時代」)

 1月11日、正午より尭祐寺で葬儀が行われました。
 翌1月12日の北海タイムスの記事「故藪尭祐氏の葬儀」によりますと、『院内庭前に千余の会葬者参集して、しめやかに棺をおくり、稀に見る盛儀であった』と記されています。

 昭和3年3月24日の北海タイムスの記事「素晴らしい発展力」によりますと、札幌西武の西18丁目に相談機関として町内会が設置されました。

 『札幌市南一条西十八丁目に於いては、西札幌の急激な発展に伴い、現今では西武の中心となり、従って、衛生、火防其の他、自治体諸般の設備等に関し、相談機関の必要を感じるに至り、且、町内親睦を計るため、西十八丁目南大通、南一条間居住者を以って町内会をつくり、有志の発起で去る二十一日の佳日を卜して、同日午後六時から町内しづの家(大通西16丁目にあった「志津庵」と思われる)で発会式を挙行した。
 参会者二十有余名、まず発起人より岩城其一氏の挨拶あり、秋葉安一氏より世話役として会則について一応の説明をなし、各々協議の結果、全てを満場一致を以って可決し、宴会に移った。
 来賓として、隣接町内を代表して小川直吉氏(西19丁目の町内会長)、堀田諸氏の祝辞あり、和気に満ち歓を盡して、十一時散会した。
 因みに、町内会においては事務所を設け、他町内からの居住問い合わせ等に就いては親切に教えたり、一般の公共事業にも盡(=尽)力をなす由。』

 藪尭祐が生前住んでいた住居を尭祐寺の西側(大通西16丁目)に移築し、「尭祐館」という名称にして一般の会合に開放することにしました。開館式は7月21日の午後3時から開催され、関係者約百名が集まったとのことです。(北海タイムス「一般の会合に尭祐館を開放す」、昭和3年7月23日)

昭和4年(1929年)

 10月30日の北海タイムスの記事「落成したる尭祐幼稚園」によりますと、尭祐幼稚園(のちの相愛幼稚園)が落成し、11月1日に開校式を行うとのことです。以下は、その記事です。

 『札幌市尭祐寺では予て私財を投じて社会事業の一端にもと、昨年来、御大典記念として児童の家・尭祐幼稚園を昨年十月起工、本年八月竣工し、来る十一月一日開校式を挙げ、授業を開始する筈である。

 校舎は二階建て、総坪数百十六坪五合、工費二万円、指田近之助氏の設計に係り、和洋折衷の体裁、実用ともに兼ね備え、暖房装置はスチームで幼稚園としては稀に見るものである。階下は保育室、遊戯室、事務室、褓姆(ほぼ)食事室、小使室、炊事室、浴室に分かれ、二階は予備室、病室、医務室の三室あり。位置は大通西十八丁目にて、園長は藪尭祐寺住職・藪俊氏、藪務氏は指導相談役、褓姆は内海みどり氏外二名の組織にて、園児は六十名を定員とし、目下募集中で、続々申し込みあり、開校準備に忙殺されている。』


尭祐幼稚園(昭和4年)
「新札幌市史 第4巻(通史4)」


藪惣七邸と尭祐幼稚園
※右が北方向


裏面(住所録)
(大日本職業別明細図、昭和4年)

昭和11年(1936年)

 3月18日の裁判所広告「藪合名会社変更」によりますと、「昭和11年3月1日代表社員籔秀二ハ死亡ニヨリ退社ス。同月2日、籔務代表社員ニ就任ス・・・」とあります。

 この1年前の「帝国銀行会社要録(昭和10年)」には、藪合名会社の代表社員は藪惣七であり、昭和10年の何時頃かはわかりませんが、藪合名会社の代表社員が藪惣七から籔秀二に変わったばかりでした。

 藪合名会社および籔商事株式会社は、この1年間で、藪惣七と籔秀二の二人とも失ってしまったようです。

昭和20年(1945年)

 おそらく、この年に幼稚園の場所が大通西18丁目から、尭祐寺がある大通西16丁目に移動したのではないでしょうか?

昭和24年(1949年)

 4月 尭祐幼稚園を「相愛幼稚園」に改称しました。(学校法人相愛学園 大通幼稚園)

昭和28年(1953年)

 当時の金額で800万円という巨額の財産税を納めなければならなくなり、所有地を借地人に購入してもらったり、転売するなどして資金を調達し、税金を納めた後、藪合名会社は解散しました。藪商事は物産などの業務をやめる一方で、土地の仲介を行っていく会社として、社長の藪勉氏、専務の朝野隆吉氏の下、新たなスタートを切りました。(「住宅産業新聞」平成26年1月1日号)

 この時、売却された藪商事会社ビルは、三誠ビルと名前が変わっていますが、現在も札幌で最古の鉄筋コンクリートビルとして、昭和63年に札幌景観資産として認定され、立派に保存されています。(「旧藪商事ビル」札幌の文化遺産)


現在の藪商事ビルディング(大通西18丁目)

昭和39年(1964年)

 藪氏が家庭の事情で東京へ移り住むことになり、その跡を継ぐ形で朝野隆吉氏が藪商事の2代目の社長に就任しています。(「住宅産業新聞」平成26年1月1日号)

昭和45年(1970年)

 相愛幼稚園の新校舎が竣工しました。(学校法人相愛学園 大通幼稚園ホームページ)


相愛幼稚園の校舎
(撮影:平成24年7月27日)

昭和49年(1974年)

 学校法人化し、学校法人相愛学園大通幼稚園に改称されました。(学校法人相愛学園 大通幼稚園)

昭和50年(1975年)

 尭祐寺が廃寺となりました。(「学校周辺の環境」北海道柔道整復専門学校ホームページ)

平成28年(2016年)

 6月、札幌に帰省した時、大通幼稚園の前を通ると、改築のためか解体中でした。

最後に

 最後に、私が相愛幼稚園の園児の頃の記憶はあまり残っていませんが、唯一尭祐寺のお堂で催された「花まつり」は今でも脳裏に残っています。

尭祐寺の花まつり

花まつり=相愛幼稚園で
花まつり=札幌・相愛幼稚園で
(北海道新聞、昭和35年4月8日)

 大正10年頃から大通西15丁目に住んでいた北海タイムスの記者による新聞記事です。当時のこの付近の様子がよくわかります。

郊外繁盛記、円山、桑園(その一)西方面の新繁昌(北海タイムス、昭和2年8月25日)

 私たちが山鼻にいた大正十年頃、社の山口(大通西十五丁目に居住の山口喜一)さんが今の大通の家を新築するので、計画に没頭していた。三井倶楽部のすぐ横で、場所は少し遠いようだが、それでも電車の終点(その頃、師範前が終点であった)まで僅(わず)か一丁位のものだから、さほど不便ではない。むしろ山鼻よりは便利なようだ。二、三年もしたら、却って山鼻より賑やかになるかも知れないというのであった。

 それが今の大通西十五丁目である。堂々たる札幌市の街区になって居るが、其の頃はまだ、郡部といわれた山鼻の東屯田にも劣る状態にあった。山口さんは、私にも家を建てた方が好いと勧めて呉れる。今の内なら土地は幾らでもあるから、借りて置いても悪くはないという。丁度、籔(惣七)さんが、分割して貸てる最中であった。兎に角、見に行く。

 一面、広い野原で、尭祐寺だけが目立っていた。その裏手の方に木材をきざんで居るのが見えた。藪の小住宅(藪合名会社が大通西15丁目に建設していた賃貸住宅団地)がその方面に出来るというのであった。山口さんの屋敷は、その広い野原の一角、高低のかなりに甚だしい荒れ地で、三井倶楽部からはなるほどすぐ近くに見えた。その他付近には勿論人家とてはない。何としても、これなら山鼻以下だと私は思った。第一、電灯は来るか知ら?といったら、それや勿論すぐ引けるだろうという事であった。

 一体何丁目に当たるだろうというと、さアと山口さんも考えた。三井倶楽部の真南に当たるから、何丁目になるかなといったものだ。今から考えると、全く想像もつかないような話であるが、その頃の十五丁目から以西は、昔の練兵場そのままの面影があり、野原であった。私は取敢えず、指図されるまま、山口さんの宅の向い側を借りることにした。

 そうして秋の頃、二度目にそこを見に行った時には、最早新築の家屋が景気好く各方面に出来ていた。これなら開けると、その時思った。更に山口さんの家の上棟式に行った時には、その近くに既に瀟洒な住宅が大分出来ていた。山鼻など、もう顔色なしの形で、私の心をもひどくそそった。

 私はその翌年、雪の融けるのを待って、勿々(早々)そこに家を建てて山鼻を引き上げた。けれども当時はまだまだ淋しいものであった。藪の小住宅こそ賑やかに揃っていたが、私どもの近所には、やっぱり住宅は寥々(りょうりょう、=少ないこと)たるもので、市中という感じは未だ少しもなかった。全然郊外の気分であった。

 私はそこで、愛犬と戯れ又鶏と戯れながら、幼いころの追憶によく耽ったものだ。殊(こと)に鶏に就いては、忘れられない懐かしい思い出がある。

 最後が長くなりますが、大正元年から昭和二年まで、知事公館の北一条通りを挟んで南側の北一条西十五丁目に住んでいた山岳画家・坂本直行氏の回顧談です。なお、同氏の作品は、十勝の六花亭の包装紙でご存知の方も多いと思います。

知事公館のあたり、坂本直行(さっぽろ文庫2、札幌の街並)

 私は大正元年から昭和二年まで、知事公館前の北一条西十五丁目の東北の角(「札幌市制紀念人名案内図」(大正11年5月)を見ると、東北角ではなくて、東南角に坂本家がある)に住んでいた。

 北一条通りは、当時二十丁目で打ち切りで、札幌神社へ行くには、南一条通りしか道はなかった。二十丁目から神社の坂までの道ができたのは、たしか私が札幌二中の三年生頃だったから、大正八年前後(正しくは、大正九年開通)のことと記憶する。

 また、私の家から南一条までは、農家が一戸あって、あとは畑ばかりだったが、南一条の角には菓子屋が一軒(製菓業、宮崎治作、南一条西十五丁目)あった。私の家の前の十四丁目は空地で旧裁判所(北一条西十三丁目)まで草原であったので、大通まではまる見えだったが、後になってこの空地に刑務所ができ、当時は未決監と呼んだ。この厚いコンクリートの壁をめぐらせた建物は、青い衣服の囚人が二人づつクサリでつながれて、長い間かかって建てたもので、毎日それを眺めて妙な気持がした。

 私の家付近の道路はまん中の馬車と人が通るところだけ砂利道だったが、あとは草ぼうぼうで、当時は大通公園を含めてこのあたりは、好適な乳牛の放牧場で、朝夕は牛がたくさん草を食っていた。私の家にローンがあったが、時々ローンに牛がたくさん来ていて、驚いたことがあった。

 当時は馬鉄の時代で、南一条西十五丁目がその終点で、ここに師範学校があったが、私の家の西側から、豊平川の分流とおぼしき川の跡が大きくへこみ、それが、師範学校の側を通って、円山の南斜面(昔のスキー場だった)の東を経て、藻岩の下の方へと続いていた。春の融雪期には、ここでソリ遊びやスキーで遊べるくらいのへこみだったが、特に師範学校の南側は大きく深いへこみがあって、雪解けには池みたいになり、イカダ乗りをして遊んだ記憶がある。

 札幌も人口二十万くらい(昭和10年くらい)までは、詩の街、緑の街だったが、今ではこの二つの看板が消え失せてしまったのは、誠に残念である。


藪惣七の住居があった大通西18丁目


尭祐寺があった大通幼稚園(大通西16丁目)

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